喬木教会礼拝説教
2003年1月1日(日)

私は戸口に立って叩いている

<ヨハネ黙示録 3章14〜22節>

◆ラオディキアにある教会にあてた手紙

14ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。15「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。16熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。17あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。18そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。19わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。21勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。22耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」

 

20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう

喬木教会の今年一年がどのようになるのか、そのことを神さまにお尋ねし続けております。一年の最初のこの日に、神さまからの預言を頂いて、そして一年間を歩みだしたいと願っておりました。が、教会にとっての一年は4月から、ということになるのでしょう。そのため、新しい年度に向けての方向性として神さまに預言を求めた、ということになります。

祈り、準備する中で示された所は、黙示録3章20節でした。主が戸を叩いているその姿です。

この姿は、よく伝道する時に用いられる聖句です。まだ神さまを知らない方に適用される言葉なのです。その御言葉がどのように喬木教会に与えられているのでしょうか?

今日読んで頂いた箇所は、ラオディキアに宛てて書かれた手紙でありました。このラオディキアは一昨年、私もその地に行ってきた所であります。

その地がどのような所であったのか。それは17節を見てみるとよくわかります。非常に金持ちでした。金融の中心地だったのです。特に織物が有名だったようですね。その他にも薬も発達していたのでしょう。ですから、18節には主からの警告として「火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」と言われております。

 

この一年を迎えるにあたり、私達にはまず忠告がなされていると思います。それは、世の富に惑わされるな、ということです。

私たちの現実の社会は、失業率が5.5%になりました。政府が把握するだけでこの数字ですからね。ひどいものですよ。そしてデフレですね。物価が安くなりました。安くなるのですから、多くの人は喜ぶ訳ですが、そのことに多くの評論家が危機を訴えています。これはお互いが首を絞めているのだ、ということです。このまま行けば、日本経済は間違いなく潰れる、というのです。それでもなかなか危機感を持つことが出来ないのが私達です。それは、バブル経済で裕福さを十分に味わってしまったからではないでしょうか。

ラオディキアという町。非常に裕福な町。世の終わりが近づいている。裁きの時がもうすぐだぞ、と言ってもなかなか危機感を持てないのです。自分達の生活に満足しているからです。本当に必要なもの。本当にするべきこと。本当に考えなければならないこと。これらのことに目が向かないのです。そのため、主から何と言われているのでしょうか。「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。16熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」です。

私たちの信仰は、熱いか冷たいか、どちらかでなければならないのに、この世のことに心奪われ、自分の生活を満足させることばかりに気が向くと、「なまぬるい」信仰になるのです。

この一年を迎えるにあたり、私達は自分自身の信仰が熱くなるように心がけるものでありたいと思います。

 

続いて、神さまからの招きがあります。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう

戸を叩くイエスさま。それは神さまを知らない人の心の戸を叩いているように考えてしまう私達です。それは間違いではないでしょう。しかし、ここで言われているイエスさまの姿は、決してイエスさまを知らない人々の戸を叩いているわけではないのです。前後の文脈から考えるならば、教会の戸を叩いていることがわかります。

教会の戸を叩いているのです。どういうことでしょうか。教会はイエスさまを中心にした集まりのことです。ところが、実際はイエスさまを外に出されてしまい、イエスさまはもう一度自分を中にいれて欲しい、と教会の戸を叩いているのです。

私達が深く悔改めなければならないところではないでしょうか。

どのような時にイエスさまは外に出されてしまうのでしょうか?それは教会が主の御心よりも、教義、教理、伝統、人間的な思い、ヒューマニズムに流されてしまう時に起こるものであります。

新しい年を迎えた私達ですが、その私達は今、神さまから招かれています。イエスさまが戸を叩いて、訪問して下さる、という形で私達を招いて下さっております。私たちがイエスさまの招きに応じるならば、イエスさまは、「その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」といわれます。

共に食事をする。それは親密さを現す言葉です。本当に親しい交わりを主とすることになるのです。

新しい年を迎えた私達は、主に迎えられた者でありましょう。

 

そして最後に祝福の約束です。

共に食事をする。それは「わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いた」と言われる方と食事をするのです。そのお方は、その勝利を私達にも与えて下さるのです。ですから、「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう」とおっしゃいます。

私達がこの地上において、家庭において、まず神さまを第一とするならば、そこにはもしかしたら争い、妬み、誘惑が生じてくるのかも知れません。それでも私達が主を第一とするならば、主は「自分の座に共に座らせ」て下さるという約束を下さっているのです。

信仰を持っている私達ですから、当然目先の利益も欲しいですが、それよりも、もっと先にある、永遠にしぼむことのない褒美、永遠の国、永遠の命に目を向けて、そこからいただける大いなる祝福を頂くものとさせていただきたいものです。

神さまは私達を豊かに祝福して下さいます。この約束は揺るぐことがありません。

新しい年も、主を第一に、主と共に、主の約束を握りしめ、歩んで参りましょう!!