喬木教会礼拝説教
2003年1月12日(日)
来て、見なさい
<ヨハネ 1章43〜51節>
◆フィリポとナタナエル、弟子となる
43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
@主が声をかけて下さっていることを覚えよう
「43イエスは...フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた」
皆さんに質問します。あなたの罪は赦されていますか?もう一つ、あなたは天国に行けますか?
イエスさまは私たちのために、神であったのに人となりこの地上に来てくれました。その目的は、私達を罪から解放し、天国に招くためでした。
なぜイエスさまは私たちの罪を背負い、死ぬことが出来たのでしょうか?それは、イエスさまは人であったにも関わらず、神であり、全く罪を犯すことがなかったからです。そのため、贖いの供え物、神の小羊とされたのです。
このお方は十字架で死に、墓に葬られ、そして三日目に復活しました。知ってか知らずか、一週間の最初の日、日曜日はイエスさまが復活されたことを記念して赤い日になり、安息の日と多くの国で定められております。日本も例外ではありませんでした。復活という記念日は、このような形でなお証明されているようです。
そのイエスさまは復活してどうなったのでしょうか?
「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」(エフェソ1:20,21)
この恐るべき主権者が、フィリポについて来なさい、と言われたのです。断ることが出来るでしょうか。このお方だからこそ、その言われることは絶対なのです。そしてこのお方に従ったからこそ、彼は後に「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と告白しているのです。
私達はこのお方に招かれて教会に来て、そして礼拝を捧げているのです。絶対的な権威を持ったお方が、私達に声をかけて下さっている。他人が何と言おうと関係ないではないですか。そのお方が保障してくれるのです。だから、イエスさまが十字架で私たちの罪を背負い、死んで下さった、だから私たちの罪は赦された!!と確信する人は、罪が赦され、天国に入る準備が出来ているのです。
A純粋な心を持つ者の幸い
「47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』」
ナタナエルとは誰でしょうか?イエスさまの12弟子の中には、「十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」(マタイ10:2~4)ナタナエルという人物は存在しません。では、その他大勢の弟子の中の一人でしょうか?おそらく、そのためにここまで大きな記事を書かないでしょう。
では誰か?多くの人は、このナタナエルはバルトロマイであった、と言います。バルトロマイはセカンド・ネームだろうと思われるのです。その名前の意味が「トロマイ又はトレミーの息子」という意味だからです。ですから、本当の名前がナタナエルであったのだろう、という訳です。
又、別の解釈方法があります。このナタナエルとは、平和の君、全てを支配される王なるメシアを真実に待ち望んでいる人々の代表した姿だ、と言われているのです。
彼はフィリポに連れられてイエスさまの所に行きました。イエスさまは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言いました。イチジクの木の下。
ユダヤの思想では、イチジクは常に平和の象徴とされていました。そしてたくさんの葉が繁ったイチジクの木の下で黙想する習慣がありました。平和を象徴する木の下で黙想する人に、戦争や破滅を求めて黙想する人がいるでしょうか?心の底から神の国を待ち望み、本当の平和が実現することを望んでいる人の姿ではないでしょうか。
イエスさまから「いちじくの木の下にいるのを見た」と言われたナタナエルは、口に出したことのない、自分の心の中の祈りを、願いを聞いて下さる方に出会った!!という驚きを持ったのではないでしょうか。しかしここに、彼はどれだけの慰めを見出したことでしょう!!自分の本当の心の叫びを聞いてくれるお方に出会ったのですから。
主は、私たちの心の奥底にある、言葉にならない呻きを聞きあげて下さっているのです。「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)
私達が純粋に神の国を待ち望めるのであれば、これは何と幸いなことではないでしょうか。私達は罪の中に生まれ、多くのことに気を病み、苦しんで来ました。でも、もう苦しむ必要はないようです。私たちの罪は、最高の権威を持った方によって贖われました。そして、その方が私たちの本当の思いを汲み取り、私達に接して下さっているのです。
主は最高の慰め主です。この主の下で安らぎを得ましょう。
B難しい理屈ではなく、本当の命を得よう
「46するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った」
今年度の教会標語は「自分の体で主の栄光を現す」ですね。どうでしょうか?皆さんの体で主の栄光を十分に現せているでしょうか?または、そのようなビジョンのもとに生活をしているでしょうか?
「主の栄光を現す」ってどういうことでしょう?主の栄光ですから、簡単なことではなさそうだ、と思ったりしていませんか?色々な信仰問答やら、教理やらを学んでからでないと出来ない、と思ったりする方もいますか?
どのようにして主の栄光を現すのでしょうか?私達は自分を訓練し、鍛え、知識を豊富にし、様々な経験をすることによって神さまの栄光を現せるでしょうか?答えは残念ながら「No」ですね。そのようにして現される栄光は全て自分の栄光です。
では主の栄光はどうやって現すのでしょうか?それフィリポのしたことです。
ナタナエルはどうやら聖書に精通していた人物のようです。彼は自分の待ち望むメシアがどこから来るのか、聖書を通して知っていたようです。ですから、フィリポが「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」と言った時、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えるのです。ナザレからメシアが登場しないことを彼は知っていたのです。
ナタナエルは知識を豊富に持っていました。だから、フィリポと論争になったなら、簡単にフィリポを打ち負かしていたことでしょう。ところがフィリポは論争をしませんでした。自分の見たもの、聞いたこと、感じたこと、これらを持って相手を言いくるめようとすることをしなかったのです。彼はただ、「来て、見なさい」とだけ言うのです。
理屈を言われれば理屈で返すのが人間です。私達が主の栄光を現そうとするのであれば、私達は理屈を言う必要がないのです。「来て、見なさい」。私たちを通して、私たちの内に働かれるイエスさまを見せれば良いのです。
そのためには、私達は自分の理屈、自分の習慣、自分の考え、こうあるべきだという概念、そういったものを取り除く必要があります。そして自分を空にすればするほど、主の栄光は自分を通して現されることでしょう。
主はどのようなお方でしたか?
私たちの罪を全て取り除き、神の国、天国に迎えて下さるお方です。そして私たちの心の奥底にある悩みに解決を与え、慰めを与えて下さるお方です。私達がお迎えすれば、このお方は私達の心にお住みになってくださるのです。
このお方をお迎えし、内に宿している私達だからこそ、私達は自分の体で主の栄光を現せるのです。この宝を自分だけのものにしておきますか?もったいないでしょう。ぜひ、家族に、友人に、知人に、この宝をお見せし、そして分かち合いましょう!!
「来て、見なさい」こう言える人は何と幸せな方でしょうか。この幸いを私たち全員が主より頂いているのです。