喬木教会礼拝説教
2003年2月9日
()

栄光の現れ

ヨハネ福音書 2:1〜12

     カナでの婚礼

1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

12この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

 

昨日、分区の青年会が上諏訪教会でもたれまして、その中の礼拝で吉村師がメッセージをしました。身振り手振り、情熱的に語って下さいました。その中で私たちに問われたことがあります。「自分の信仰に、生活に満足していますか?」という問いです。

続けて、「神さまは全ての人々が救われることを望んでおられます。その神さまの思いを放っておきながら、自分の生活に満足するなんていうことがあるのでしょうか?冗談じゃないでしょう!!」と言っておりました。

どうも私たちは日曜日は「聖日」と呼び、クリスチャンとして信仰を持っていることを思い出すのですが、普段は「信仰」を忘れてしまう、そんなクセを持っているのかもしれませんね。

今日は、イエスさまが私たちの生活の中で働いておられることを十分に覚えたいと思っております。

 

@     主を信頼することを常としよう(5節)

イエスさまはガリラヤのカナで催された婚礼に出かけました。当時のイスラエルにおいて、婚礼は盛大に催されるものでありました。貧困と重労働の連続である人生において、この祝いと喜びの時こそが人生における最上の機会、となるようにお祝いするのが婚礼です。ですから、1週間は家庭を解放してお祝いし、花婿や花嫁は王様、王女様として扱われるのです。

そのお祝いの席で問題が発生しました。飲み物が無くなってしまうのです。もてなすことを聖なる勤めと考えているイスラエル人にとって、しかもお祝いの席で、客をもてなす飲み物が底を尽きてしまうということは、「末代までの恥」になってしまうような事件です。

このような問題が生じた時、私たちならどうするでしょうか?今なら「じゃあ、ちょっと買ってくる」と言って車ですぐに買って来られるでしょうが、当時はそうはいかないです。このような環境にあったら、皆さんならどうしますか?

イエスさまのお母様マリアはこの時、自分の息子を頼りにしました。「ぶどう酒がなくなりました」とイエスさまに報告するのです。何気ない言葉かも知れませんが、マリアは問題が起こった時、すぐに息子のイエスさまに報告し、助けを求めました。イエスさまは確かにマリアの子でしたが、マリアはイエスさまが聖霊によって宿った神の子であることを知っていたのです。ですから、正確には、イエスさまを息子として頼るのではなく、神の子として頼りにしたのでしょう。

私たちは、神の子として、キリストの死に与るバプテスマを受けました。それは「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストが公然と崇められるように」(ガラテヤ1:20)なることです。

であるならば、私たちは全ての面でキリストを模範とし、キリストに頼り、キリストを生活の中心に据えていなければなりません。

自分たちの生活において、どうでしょうか?キリストが自分の中心にいる、という自覚を持って生活しているでしょうか?また、迷いが生じた時、常に考えがすぐに「イエスさま!!」という方向に向いているでしょうか?イエスさまは日曜日だけではない。いつも私たちと共にいて下さるお方です。絶えずイエスさまに思いを向ける、絶えず祈る、そんな者でありましょう。

 

A     主に示されたことは忠実に行おう(7,8節)

イエスさまを中心にする生活とはどのような生活でしょうか?

皆さんは現在どなたと暮らしているのでしょうか?その暮らしている方と、四六時中顔を会わせておきながら、週に一回程度しか会話をしない、などということはあり得るでしょうか?

イエスさまを生活の中心にし、イエスさまと共に生きるということは、イエスさまと会話をする、ということです。どのように会話をするのか?聖書の言葉を通してです。

ですから聖書を読む。それはクリスチャンとして当然のことになるでしょう。読む中でたくさん神さまと会話が出来ます。でも、会話が出来てきますと、今度はその上にどのような関係を築くのか、という点が問題になります。返事だけするけど、相手の言うことを聞かない。では会話する度に関係が悪化しますね。

イエスさまの方は、私たちとの会話の中で、私たちがお願いしたことをずっと覚えておられ、私たちにとって最善な時に必ず応えて下さっております。では私たちは?

そもそも、イエスさまからの要求を聞く準備が出来ていますか?要求することに一生懸命で、要求されることに心備えが出来ていない、ということがないでしょうか?関係を築いていくのですから、神の側から出された要求にはしっかりと応えて行きましょう。例えそれが自分の意に沿ぐわなくてもです。

7,8節。召使いたちは、イエスさまから桶に水をいっぱいに入れろといわれました。何の意味があるのでしょう?さらに水が入った桶を世話役の所に持っていけ、というのです。何の意味があるのでしょう?召使いは全く理解出来なかったでしょう。でも彼らは言われたことをことごとく実行しました。その結果、素晴らしい奇跡が起こりました。

私たちがデボーションで、御言葉の適用をしなければ、神さまとの関係が一方通行になりやすいのです。本当に祝福された関係を築くには、こちらの要求、あちらの要求、両方が聞かれ、行われることです。

御言葉を忠実に行えるようでありましょう。

 

B     主は私たちの間で栄光を現して下さることを覚えよう(11節)

主の求めておられることは何でしょうか?この地上の全ての人が救われ、永遠の命を持つことです。それは、この世を造られた神さまと正常な関係を持つ、ということです。そのために私たちを先に召し、この世の遣わしているのです。

福音とは何ですか?「喜びの訪れ」、「Good News」という意味でしょう。神さまは私たちに最高のことを成して下さいました。私たちの罪を贖い、私たちに限りない恵みを注ぎ、私たちの内を喜びと感謝と希望で満ち溢れさせて下さるのです。

マリアはイエスさまを信じきり、自分の目の前にある問題を解決しました。召使いたちは、イエスさまに言われた通りに行動し、神さまの奇跡に参与し、それを目の当たりにしました。

私たちには、イエスさまが十字架上で私たちの罪を負い、復活し、今、御子を信じる者に永遠の命が与えられるという事実を知り、その恵みに与っているのです。マリアや召使いたちが受けた恵みよりもはるかに大きなことです。

この恵みが与えられて、この恵みの内に私たちは遣われるのです。であるならば、私たちの生活、私たちの普段していることを通して神さまの偉大なる奇跡が起こされ、私たちを通してその栄光が現されるということなのです。

誰が私を見て救われるのでしょうか?誰もいませんよ。私たちが伝道し、人々が救われるのは、私たちを生かし、私たちの内に働かれる神さまの存在が現され、神の栄光が現れるからです。

私たちは神の国の大使として、神の栄光を現す存在なのです。私たちを通し、この地上に神の栄光を豊かに現していきましょう。