喬木教会礼拝説教
2003年2月23日(日)
主のしるし
<ヨハネ 2章13〜25節>
◆神殿から商人を追い出す
13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
◆イエスは人間の心を知っておられる
23イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、25人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
@ 主は私たちを清めて下さいます(15)
先週の月曜日は群の教師会で、多くの先生方とお会いしました。その中の一人で、今年度いっぱいで引退される牧師がいまして、少し話をする機会がありました。その先生が会話の中で言っておりました。「聖書は非常に不思議ですね。何十年と読んでいるのに、読む度に新しい発見があるのですから」と。
聖書は不思議です。私が洗礼を受けたばかりの頃、自分が聖書を読んで感動し、教会に行き始めたものですから、友人達に聖書を読むことを勧めました。イエスさまの話を読めば、誰もが感動すると思ったのです。ところが、その時に私の勧めに従って聖書を読んでくれた友人は一人だけでした。さらに、読んだ感想は、彼は頭が良かったので、話の内容は理解できたようですが、「全く面白くない。感動もない。」とのことでした。
聖書は、ある人にとってはただの分厚いつまらない書物。またある人によっては感動する素晴らしい書物です。そしてこれらは、私たちの主観的な立場での不思議であります。
聖書が不思議、というのは、客観的な立場で見ても不思議だから不思議なのです。聖書の書かれた年代はいつ頃かご存知ですか?紀元前1400年頃〜紀元後90年頃に書かれたと言われております。一説には紀元前2000年頃に書かれたものもある、といわれておりますから、もしかしたら2000年間に渡って書かれていることになります。
そして書いた人は誰でしょう?一人ではないですね。多くの人によって書かれました。その人数は40人と言われております。その40人の人々はどのような人々だったのか?教養のない方々もいれば、王様や政治家、学者のような人々もいます。様々な立場の人が、違う年代の中で記しているのです。
普通、これだけの条件の中に置かれたら、例え書物を書いたとしても、その書物には統一性は生まれず、短編小説を集めた本になってしまいます。しかし、客観的に不思議なのは、この2000年という長い時間の中で、様々な立場の人が記した書物を集めた本でありながら、この書物には統一性があり、計画性もある、ということです。さらに不思議さは、この書物が現在でも世界でベストセラーになっており、約2000語に翻訳されている、というところにもあります。
でも、ただそれだけであるのであれば、確かに不思議な書物として有名にはなるでしょうが、本当に不思議だ、と言って、いつまでもベストセラーの座には留まっておれないでしょう。
なぜ今から約4000年も前に書き始められた聖書が今を持ってなおそのベストセラーの座に留まっておれるのか。そこに聖書の真の不思議さがあります。
その不思議を聖書では「奇跡」と言ったり、「しるし」と言ったりするわけですが、聖書で言われる「しるし」にこそ、そのしるしを行った方の性質なり人格なり目的なりが現されていたりするのです。ですから、今日開かれた聖書の中にあるしるしを見てみますと、その意味がわかるのかも知れません。
今日の箇所でイエスさまは何をしておられるのでしょうか?イエスさまは、神殿の中に入り、その中で商売をしている人々を追出し、神殿を本来あるべき姿に戻しております。
神殿の中でなされていた商売。それは、捧げ物になる動物を売ったり、神殿税に使われるお金を高い手数料で両替したりする商売です。神殿の中において、ヤクザのような商売がなされていて、本当の意味で祈りの場、聖なる場とされていなかったのです。神殿を神殿とさせない販売業者を、イエスさまはことごとく追出し、本来あるべき神殿の姿になさったのです。
このしるしが、もし今から2000年前の出来事としてのみ記されているのならば、聖書は不思議な書物でも何でもありません。実は、イエスさまが神殿を清められた。その事実が今もなお生きていて、私たちの内になされているから不思議なのです。
聖書を見て行きますと、私たち人間は神の霊を宿す存在であることがわかります。神の霊を吹き込まれて生きる者とされているのですから。ですから、聖霊の住む宮だ、と言われているのです。ところがどうでしょうか?私たちは本当に神の宮となっているのでしょうか?私たちが本当に神の宮となっているのでしたら、たとえ人生の嵐の中を通ったとしても、私たちの心はいつも平安でしょう。困難に立ち向かう力を持っているでしょう。ところがそうならない。私たちの体が、神の住む宮とされていないからです。神さまは聖なる清いお方ですから、罪に汚れた所には住むことが出来ないのです。
そしてどうでしょう?人間に清い方はいるのでしょうか?聖書は誰も正しい人、義なる人、清い人はいないと記されております。必ず人間には罪があるんです。だから神さまを迎えることが出来ないのです。
ところが、そんな人間の世界に来て下さったのがイエスさまですよ。そして、私たちの聖なる宮(体)が、聖なるものとなっていないその現状に嘆かれ、私たちの内にある罪を一つ一つ拭い去ってくださっているのです。
私たちの側でイエスさまのもとに行って、自分で私たちの内を清めるのではなく、イエスさまの側から私たちの所に来て下さり、私たちを本来あるべき姿へと変えて下さるというのです。この不思議な出来事が現在でも行われているから不思議なのです。聖書の持つ力の秘密なのです。
A 主は私たちを造り変えて下さいます(19)
ではどのようにして私たちを造り変えて下さるのでしょうか?それと同じ質問を、ユダヤ人たちがイエスさまにしています。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。2000年前に十字架につけられて死んでいるイエスさまに、どうして今の私たちの心から汚れたものを取り除き、私たちを清めることが出来るのか?という質問です。確かに今現在、この記事のようにイエスさまは目に見える形で、鞭を振りながら私たちの所に来るようなことはないですよね。
ではイエスさまはどのようにその業をなされたのでしょうか?主は答えて言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。神殿と言われた時、誰もが本当の建物である神殿。46年かかって出来ている神殿を思い浮かべております。でも弟子達が後で悟りました。「21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し」たと。
イエスさまが自分の体を神殿と言い、その神殿を三日で建て直す。その意味はなんなのでしょう?
イエスさまは十字架にかかって死にました。命を引き取ったのです。ということは、その神殿である体は魂の抜け殻になり、意味をなさなくなってしまいました。墓に葬られました。ところが、その墓に後で行って見ると、墓は空っぽだったのです。そして生きているイエスさまが婦人達に会いました。まるで映画のようですね。
死んでいるはずのイエスさまが三日目に生き返っていたのです。生き返ったことを「よみがえり」と言いますが、それは「陰府(よみ)」から「返ってきた」ということです。仮死状態だった人が息を吹き返す、ということではありません。その証拠として、主は鍵のかかった部屋にいきなり現れたり、天に昇っても行きました。さらに、幽霊のような実態のない体ではなく、食物を食べることの出来る体を持っておりました。それらを証言する人々がたくさんいたのです。
考えてもみて下さい。「イエスさまが死んだのに、生き返った」。もしこのことが事実ではないのであれば、復活を教理とする教えが2000年も、激しい迫害の中をくぐり抜け、さらに全世界に広がっていくと思いますか?実際に復活の主に出会った人がいなければ、この新約聖書も書かれていませんよ。でも、聖書が書かれている。全世界にその知らせが行き届き、今もなお生きておられる主に出会う方々がおられる。教会には主が生きておられることの証人がたくさんいます。
主は十字架で死なれ、三日でその神殿である体を建て直す、生き返らせたのです。
では何のためだったのでしょうか?主は宮を清める、というしるしの中で、神殿を建て直す、ということを語られました。病気を癒したり、悪霊を追出したりすることの出来るお方で、そのようなしるしをして下さっても良いのですが、ここではそのようなことではなく、「三日で建て直す」と言われたのです。
つまり、イエスさまが十字架につき、その神殿を打ち壊す、ということは、それは私たちの体である宮を清めるためであり、その宮である体が完全に清いものとしてあるべき姿になるために、建て直す、復活ということがおこるということなのです。
人が苦しむのは、本来あるべき姿の形で生きていないからなのです。本来神を礼拝し、祈り、神の霊で満たされているべき部分に、お金の問題、生活の問題、生きるために必要と思わされている問題が満ち溢れているから、本当の意味で方の力を抜き、ありのままの姿の自分で生きることが出来なくなってしまう。苦しい自分であり続けなければならなくなってしまうのであります。
主はその私たちを苦しめる根源である罪を拭い去るために、ご自身の命を捨て、私たちのために死んでくださったのです。ですから主の十字架の死が自分のためであったことを信じるならば、私たちの心の罪は赦され、本来の自分の姿に戻り、平安を心に満たすことが出来るようになるのです。
主は十字架によって私たちの汚れを取り去って下さったのです。十字架によって、私たちを新しく造り変えて下さるのです。十字架によって新しい自分にさせていただきましょう。
B 本当の幸福への招き。(25)
イエスさまはエルサレムにおいて、多くのしるしを行いました。ですから「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」のです。ところが、その人々に対してイエスさまはどうされていたかというと、「イエス御自身は彼らを信用されなかった」のです。なぜでしょう?イエスさまは人を知っていたからだと言います。
人の噂も75日と言われます。何か凄いことが起こっても、時が経つにつれて忘れられてしまいます。流行の物があっても、流れ行くものですから、やがて消え去ります。人の感情も同じですね。一時は絶大な支持を得ていた人も、時が経つにつれて支持が下がり、ついには消されそうになったりするものです。
イエスさまは様々な奇跡、しるしを行います。その時、人々は大喜びでイエスさまを受け入れるでしょう。大きな流行となります。イエスさまが時に人になる訳です。で、もしその時にイエスさま群衆にご自身を委ねてしまったら、どうなるのでしょうか?
群集は散々イエスさまを利用して、ご利益だけ頂いて、具合が悪くなったらイエスさまを捨ててしまいますね。群集とはそんなものでしょう。ですから、イエスさまは人々を助け、導いても、群集に御自身を委ねることはなさいませんでした。
では、イエスさまは私たちを信用されないのか、というと矛盾してしまいますよね。何のためにイエスさまは命までかけて私たちの内を清めて下さったのか。
だから私たちはイエスさまがなさるしるしを見て、イエスさまがどのようなお方で、何のためにしるし(奇跡)を行ってくださるのかを理解する必要があるのです。
イエスさまは私たちにご利益を与えよう。ご利益によって私たちがクリスチャンになるようしよう。としているのはありません。もしそうならば、群集に自分を委ね、いっぺんにイスラエルの王様となっていたことでしょう。
イエスさまがしるしを行い、私たちを助けるのは、全て神の国のためなのです。ですから、イエスさまは「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」(マタイ16:24)と言われます。
イエスさまが地上を歩まれた3年間。多くの人を癒し、神の国を教え、様々な奇跡を行いましたが、イエスさまが常に集中し、しておられたことは、使徒と呼ばれる弟子達を教育することでした。
私たちはこの世ではイエスさまを信じていても相変わらず苦しみもあり、悲しみもあり、時に「なぜこのようなことが私の身に起こるのか!?」と叫びたくなることもあります。そんな中にあっても落胆せず、生きる気力を失わず、肯定的に生きるようになるには、イエスさまを利用出来るだけ利用しようとする「群集」ではなく、イエスさまの言われる十字架を自ら背負おうとする「弟子」である必要あるのです。
私たちがイエスさまを自分の都合の良い形で「信じる」のであれば、罪は赦されるかも知れません。でも、本当の意味で「本来の自分」が持つ力を発揮できる自分にはなることが出来ません。私たちが本来あるべき姿で、生き生きと生きていくためには、主の「弟子」として、自分の十字架を背負って主に従う者であるべきなのです。その時、私たちは主のしるしのゆえに、心から喜び、希望に満たされて、生きる者へと変えられるのです。
その姿こそが、私たちにとって一番幸福なのです。主はそこに私たちを招いておられます。主の招きに応え、祝福をたくさんいただきましょう。