喬木教会礼拝説教
2003年3月2日(日)

 水と霊で生まれる 

<ヨハネ 3章1〜15節>

◆イエスとニコデモ

1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 

ニコデモとう人物がある晩の夜、イエスさまの所にやってまいりました。彼はファリサイ派に属する者でした。さらに、サンヘドリン(70人で行われるユダヤ最高法院)にも属する者です。イエスさまが十字架で亡くなった時には「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た(ヨハネ19:39)とあるので、彼は非常に裕福な家系あることがわかります。ですから、現在の日本で例えて言えば、「東大の教授であり、衆議院議員であり、最高裁の判事でもある」という具合です。

このような人物がイエスさまの所に何をしにきたのでしょうか?彼はイエスさまの所で、開口一番このように言いました。「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」。

イエスさまの登場でファリサイ派といわれる人々は慌てふためいていました。そして全体的には、イエスさまの働きを認めるよりも、彼らのプライドのゆえ、イエスさまを警戒、排斥する動きの方が強かったのです。そんな中でのファリサイ派ニコデモの言葉には少々驚かされます。さらに驚くことは、彼がイエスさまに死後の不安について助けを求めに来ている、という事に驚かされるのです。

なぜ「死後の問題」が出てくるのでしょうか?2節で語られたニコデモの挨拶に対して、3節でイエスさまは答えておられます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモが尋ねる前に、彼の求めていることを察知してイエスさまは答えてくださっているのです。

死後の問題=神の国に入れるか否かなのです。そしてその問題に、そのことについて教える立場にある人物が悩み、イエスさまに解決を求めてやって来たのです。

新たに生まれ」る。それはユダヤやギリシャには定着している概念でもありました。異教徒がユダヤ教に改宗する。その時にバプテスマを受けているのですが、その時にはバプテスマを受けた者は新しく生まれた者、とみなされていたのです。ですから、古い自分が持っていた負債なども免除され、生まれたばかりの赤ちゃんと同じ状態とされていたのです。だから、ニコデモも新しく生まれなければ神の国を見ることが出来ない、その言葉は知っていました。でも、そうなれない、おそらく彼はそこにジレンマを覚え、どうしても解決を得れず、不安と恐れにいつも付きまとわれていたのでしょう。

それでイエスさまの言葉に対して彼は「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」などと、「それは無理なことで、出来ない!!」と泣き叫んでいるのです。

その言葉に対するイエスさまの答えは何でしたか?「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」、でした。「水」と「霊」です。ですから、新しく生まれるために、水と霊についてまず見て行きましょう。

 

@ 水によって清められ、新たにされよう

現代人は7つの恐れと不安(ナポレオン・ヒル)があると言われます。その7つとは、貧しさ、失敗、病気、愛を失うこと、老いていくこと、自由を失うこと、そして死です。実際は、自分がその問題に直面してみなければわからないものでもありますが、とにかく「死」という問題は特別に大きな問題になっているのではないでしょうか。

そしてその「死」という問題を解決するために様々な宗教が生まれたりしているわけです。その宗教なり、人々が「死」を克服しようとしていることを見てみますと、大体が「善行を積むこと」、「清く正しく生きること」を目指しているように思えます。それはまるで、「清い者は神を見る」という聖書の言葉を守ろうとしているかのようです。死を克服するためには、「罪」があってはならない、そのことを人は本能的に知っているのです。

ですから、イエスさまはまず「水」によって清められる必要を教えて下さいました。私たちは水によって清められるのです。

旧約聖書を見ましても、汚れたものに触れた者は「衣服不を水洗いせよ」とか、汚れた者は宿営の外に出て、水で洗ってから入ることが出来るとか、そんな規定が数多く記されております。何にしてもそうだと思いますが、汚れている場合、私たちは洗って綺麗にするのです。

私たちは残念ながら、行いによって清くなることが出来ないのです。「10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです(ガラテヤ3:10,11)。行いをする場合、徹底して行いが正しくないと行けないのです。でもそれは私たちには出来ないでしょう。だから無理なのです。

私たちは、自分よりももっと偉大なお方からの恵みによって清めていただくしかないのです。清めて頂く水。この水によって私たちの罪を洗い流していただきましょう。

 

A 霊によって力に満たされ、新たにされよう

ところが、「水」だけではどうも不十分のようです。なぜでしょう?私たちの体質と言いましょうか、性質と言いましょうか、自分の過去を振り返って見ていただければわかるかもしれません。

気持ちを新たにした。その新たな気持ちはどれくらいもちますか?例えば、「一年の計は元旦にあり」と昔から言われております。新しい気持ちで一年をスタートさせます。その気持ちは一年間続くでしょうか?残念ながら普通はあまり続かないですよね。

私たちは神さまから偉大な恵みによって、水で過去の罪が洗い流されて、清い者とさせていただけるのです!!でも、それだけならばその清さ、長続きしないのですよ。洗礼を受けた人の平均寿命は2.8年だと言われるのですが、それもそのはずだと思えてしまいます。「水」だけの恵みしか頂かないからなのです。

だからイエスさまは「水と霊とによって」と言われたのです。水で新たにされると同時に、霊によっても新たにされなければならないのです。

私たち人間は「霊長類」とも言われますが、「霊」を持っている存在です。そしてその霊は神さまから吹き込まれたものです。これが、私たち人間が神さまに「似せて造られた」と言われる所以です。

霊によって新たにされる、それはどういう意味になるのかというと、私たちの力の源である、私たちの人格の源である霊が、神の霊によって新しくされることです。ですから、私たちの人格が本当に新しく生まれ変わる、ということを意味するのです。

今までは人目を気にするあまりに、下手なことが出来なかった。今までは自分の中の信念を曲げたくないから頑張ってきた。今までは人から後ろ指さされたくないから頑張ってきた。という類のもの、それが私たちの力の源だったと思うのです。でも今度からは違います。頑張る必要がなくなるのです。自然に力が沸いてくるからです。なぜなら、力の源が神の霊、聖霊さまになるからです。

肉のままの体質、それは力の源をプライドに置きます。だから自分が頑張ってやっていかなればならないのです。でも、霊の体質は、力の源を霊である神さまに置きます。だから自分がやることには変わりないのですが、その力の源は神さまなので以前のように頑張ったり、苦しんだりする必要がないのです。

私たちの体質そのものが変えられる、ということなのです。

自分の力に頼り、一所懸命苦しんでいることがないでしょうか?霊によって新しく生まれ変わる時、私たちは与えられた人生を非常に有意義に、平安の内に過ごすことが可能になります。

 

B 上げられた人の子を見て、救いを得よう

さて、ではどのようにしたら水と霊によって新たに生まれ変わることが出来るのでしょうか?最後にイエスさまは「荒れ野で上げられた蛇」の話をしますね。この話しは民数記214~9節に記されています。

青銅で蛇の像を造り、旗ざおの先に掲げるのです。炎の蛇に咬まれた者も、この像を見るならば命が助かる、という話です。

十戒の中で、「あなたがたはいかなる像をも作ってはならない。これにひれ伏してはならない」と命じられているのに、その神さまが青銅で蛇の像を作れ、それを見上げれば命を得る、等と言われるのは、どうも矛盾しているように思えます。なぜそのようなことが言われたのでしょうか?

それは、この蛇の像がイエスさまを象徴しているからなのです。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」というのです。

蛇という生き物は、聖書の中ではサタンを現す生き物として登場します。最初の人アダムとエバを罪に陥れたものです。ですから神さまによって呪いを受けました。この地上で最も呪われている生物かも知れません。この生き物が旗ざおにかけられて上げられる。そしてこれがイエスさまもこのようにならなければならない、といわれるのです。

旧約聖書の律法の中には「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである(申命記21:23)とあります。イエスさまもやがて木にかけられて殺されてしまいます。イエスさまは人々の罪を背負って十字架にかかります。人々の罪を背負うのですから、最も「呪われた者」となってしまうのです。だからイエスさまは言いました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)と。

人々に嘲られ、捨てられて、呪われた者となって十字架、木にかかって死なれたイエスさま。旗ざおに掲げられた青銅の蛇と同じようになったのです。

そしてその十字架を仰ぎ見るものはどうなったのでしょう?青銅を仰ぎ見た人々と同じように命を得るのです。しかも十字架を仰ぎ見る者には、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」というのです。

パウロという人物も最初は「木にかけられて死んだのだから、イエスを信じるものは呪われている」と律法に忠実にクリスチャンを迫害しました。ところが、人の子を仰ぎ見る時に永遠の命を得ること知って、彼は迫害する者から伝道する者へと変えられて行ったのです。だから弟子たちは言いました。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです(使徒4:12)

今、私たちは上げられたキリストを見上げること、信じることで救いを得ることが出来るのです。そして救いを得た者は、水と霊によって新しく生まれ変わる洗礼を受ける恵みを頂いているのです。

私たちのために上げられたキリストを仰ぎ見つつ、水と霊で新たにされ、生きる者にしていただきましょう。