喬木教会礼拝説教
2003年3月16日(日)
光と闇
<ヨハネ 3章16〜21節>
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
3月16日にヨハネ3:16の御言葉当たるのも、不思議な導きを感じますね。このヨハネ福音書3:16は、とても有名な言葉です。たとえ聖書がなくなったとしても、この一節だけ残っていればまた聖書が出来る、と言われたほどの言葉です。ここに偉大な神の偉大な愛が記されているからです。
@ あなたは愛されている(16節)
火曜日に教師会で諏訪に行きまして、諏訪湖の横を通ったのですがそこに「包丁塚」というのがありました。なんか包丁まで拝む対象になっているそうです。それで一緒にいた牧師が話してくれたのですが、彼は今年度いっぱいで今の教会を辞任し、新しい教会に引っ越します。それで荷物の整理をしているそうですが、ゴミを焼却場に持って行ったそうです。その中に人形があったそうですが、従業員がその人形を見て、「これは勘弁して下さい」と言ったそうです。
この日本における神概念とはどのようなものでしょうか?私たちを助けるという存在というよりも、私たちを罰し、懲らしめる存在になっているような感じですね。さらに、人間の良いように利用されるだけの神様もいて、人間よりも弱い存在になっているような感じです。
では、聖書の神さまはどうでしょうか?ヨハネ福音書は最初から神がどのような存在であるかを語っております。「始めに言があった」という言葉ですね。全てがこの神によって成った、というのです。ですから、聖書における神の存在は、最初であり最後。この地上の全てを支配しておられるお方です。最高の権威を持ったお方。何者もこのお方の上に立つことの出来ない、そんな存在です。
このようなお方ですから、神を利用しようとしている人々にとっては受け入れられないのです。「神に頼らなくてもやっていける」と。また罰する神概念を持っている方にしてみると、恐れの対象になってしまうのです。
でも、今日の3:16を見るならば、私たちは正しく神がどのようなお方であるかを知ることが出来ます。
まず、神はどのような思いで人間を見ておられるのか。「独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。私たちを愛する存在です。だから独り子を与えたそうです。
愛とは目に見えないものかも知れません。でも、現すことの出来るものではあります。神はその愛を現すために、独り子を私たちに与えて下さいました。神さまの払った犠牲は独り子の命です。親であれば自分の子を犠牲にすることのつらさを想像出来ると思います。また親でなくても、そのつらさを想像することは可能でしょう。
日本では神の恩寵に与ろうとすれば、こちらから努力と献身、奉仕を強要され、なお不十分であると罰せられるのですが、聖書で言われる神は、神の側からの愛が私たちを先に包んで下さっているのです。私たちの側がどうあろうとも、その影響を全く受けない大きなお方が、私たちをまず愛して下さっているのです。しかも世を愛されたという。それはこの世にいる私たち一人一人、全ての人が愛されているのです。
神を知っている人も知らない人も、全ての人が愛されている。その愛から漏れている人は誰一人としていません。私たちは神を恐れる必要がないのです。神が私たちを愛して下さっているから。その愛は、全ての人を愛しているのに、自分だけが愛されているように感じることの出来る、本当に大きな愛です。
今日、一つ目のポイントとして心に刻んで下さい。「私は愛されている」と。「でも自分は違うだろうなぁ」なんて考えないで下さい。神さまはあなたを愛しておられます。
A 暗闇の罠から脱出せよ(19)
神さまは愛を現すために独り子をこの世に送りました。そしてこの独り子を信じる者が裁きを受けることなく、永遠の命に与れることを約束してくださったのです。ですから、独り子を信じる者は、永遠の命を得ております。これはこの福音書の最初でも言われております。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)。
神の子となる。それは罪の縄目から解放されて、光り輝く自由の世界に住むことです。罪から解放されているので、永遠に光の世界に生きることですね。だからイエスさまは最初「独り子」と言っていた所を、19節から「光」と言い換えております。
光が私たちの所に来たのです。光とは非常にありがたいものですね。光(電気)のお陰で私たちの文化も大いに飛躍しました。そして今では都会に行きますと、夜中でも煌々と光が照らされて、人々が活発に活動しております。
ところが、本当に光がありがたいのかというと、ある人にとっては好ましく、ありがたくても、ある人にとっては迷惑な場合があるのですね。本当の光りは、私たちの全てをあからさまにします。ですから、疚しい思いがあると光りからちょっと身を引き、適度に自分を隠せる闇を求めるのです。かといって本当に闇が好きなのかというと、全くの闇だと怖くてしかたがない。
人は光の内に住みたいと願いながら、光りだけだと居心地の悪さを感じ、又は嫌悪し、闇の部分を求めてしまうのです。そのため、本当の平安や喜びを心から味わうことが出来なくなってしまったのです。そして、光の中に出て来られないそのことが、その人にとっての裁きになってしまうのです。
だから私たちはどうするべきでしょうか?適度な明るさの中に住みたいと思いますか?でも、「適度な明るさ」など、聖書には存在しません。あるのは、「光り」か「闇」どちらかです。
聖書は、私たちに光の中に来るように招いております。全ての人が光の中に住むようになることを神さまが求めておられるのです。そのために独り子をお遣わしになり、私たちの生活に光を照らされたのです。
闇の罠は、人の罪を必要以上に大きく見せることです。誰でも影で遊んだことがあると思いますが、影は映し出し方によっては現物よりも大きく見せることが可能なんですよね。闇の世界に入っていながら、適度に光を求めると、自分の小さな罪も大きく見せられ、そして光の世界に行くことに躊躇させられるのです。これが罠ですよ。
だから今、私たちがしなければならないことは、闇を好む自分の性質をことごとく捨てることです。光しか無い世界においては、陰が存在しないのですから。神さまは、私たちが罪人であったのに愛し、私たちのために独り子を遣わして下さり、十字架の上の贖いとして下さったのです(ローマ5:8)。私たちは弱い、でも神さまは愛して下さっている。だから安心して自分の弱さ、罪、これを告白しましょう。私たちが罪を告白する時、神さまは真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めて下さるのです(1ヨハネ1:9)。
B 光の内に住みましょう(21)
しばしば、私たちがこの世で生きていくのが難しいと思うとき、それはどのような時でしょうか?まぁ色々な時に難しさを覚えるとは思うのですが、自分の力に限界を感じた時などがそうではないでしょうか。限界を感じ、それを人に言えない。見られたくない。また自分自身で認めたくない。そのようになればなるほど、難しく、困難を覚えるのではないでしょうか。
人にはプライドがあります。見栄を張りたがるものです。ですから自分の弱さを知られるのが嫌なんです。でも、自分の弱さを隠そうとすると、やはりそれが見えない世界、闇が良くなってしまいますね。そすると心に平安もなく、私たちの神経は緊張状態が続き、疲れてしまいます。
21節を見ると、「真理を行う者は光の方に来る」とあります。真理とは何でしょうか?
私たちは正しい者でしょうか?間違いを犯さない者でしょうか?私たちは完璧でしょうか?私たちは力ある者でしょうか?私たちに出来ないことは何もないのでしょうか?
これらの質問に対して、「No」と答える方は、恐らく光の方に行くでしょう。真理を知っているからです。でももしこれらの質問に一つでも「Yes」と答えるならば、自分の行いが「神に導かれてなされたということが、明らかになる」ことを拒むので、光に良くことを拒むでしょう。
私たちが正しい行いが出来る者ではないことを、神さまは百も承知で私たちを受け入れて下さっているのです。であるならば、私たちは必要以上に自分自身を大きく見せたり、立派に見せたりする必要があるでしょうか?等身大のままでいいのです。そのままの姿で神のもとに行き、そして神に従って行きましょう。
光の内を歩むなら、私たちは躓くことがないのです(ヨハネ11:9)。安心して光の内に住みましょう。