喬木教会礼拝説教
2003年3月23日(日)
主が栄える喜び
<ヨハネ 3章22〜30節>
◆イエスと洗礼者ヨハネ
22その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。24ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。25ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
私たちが何かを学ぼうとする時、学ぶことについてモデルがいると非常に学び易い、ということを経験したことはないでしょうか?信仰生活も同じです。信仰者の先輩がいる。その先輩がモデルとなっていれば、私たちはそのモデルの真似をすれば良いのです。そうすれば多くの失敗を回避することが出来ます。
今日は、信仰の先輩として「洗礼者のヨハネ」をモデルとして、私たちの信仰について学びたいと思います。
@ 無駄なプライドは捨てよう
25節「清めのことで論争が起こった」
イエスさまが活動を開始されてしばらくすると、多くの人々がイエスさまの方に行きました。それは、それまで偉大な預言者として、または「もしかしたらこの人がメシアかも知れない」と期待されていた人物、バプテスマのヨハネのもとから人々が去っていく、ということを意味しています。
後に語られるヨハネの言葉を見ると、人々が自分のもとから去っていくことをヨハネはあまり気にはしていないようです。ところが、弟子達は気にします。「何が起こっているのか!?」その状況を正しく判断することが出来ないからです。
そんな時、ユダヤ人とヨハネの弟子たちの間で論争が起こったというのです。どんな内容の論争でしょうか?25節には「清めのことで」と記されています。清めのことについて論争したのですね。ですから内容はどのような内容になるのでしょうか?
人間はいかにして罪から清められるのか。清められた人間の生活はどのようなものなのか。清められると人は罪を犯さなくなるのか。どのようにして清められるのか。そもそも人間は清められなければならないほど汚れているのか等々。清めについての論争の内容は豊富です。
でも、ここでの論争はどうやらそういう内容ではないようです。なぜなら、その論争後の弟子たちの言葉はこう言いのもでした。26節「ラビ(先生)、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」。
ですから論争の内容は、「人は清められている人の方に行く。ヨハネは本当の意味で清められていないのではないか」とか、「ヨハネは落ち目だな」とか、「清めのことで」とか言っておきながら、今で言えば人気のなくなった芸能人のような扱いを受けたのではないでしょうか。それで弟子達は「清め」のことはさて置き、師匠であるヨハネの肩を持ち、弁護した。でも、この現象はどのように説明して良いのかわからない。それで、ついにヨハネ先生にその説明を求めに行ったのです。
この時に注目したいのは、「清め」といういかにも聖書的な内容について論争し、あたかも信仰を持っている人々の会話(論争)をしているように見せながら、実はその中身は自分達のプライドを守ろうとする論争でしかなかった、ということです。
自分で築き、守ろうとするプライドもありますが、知らず知らずに積み重ねられて行くプライドもあります。そしてそのプライドがとても怖い。人を傷付ける理由を自分の内で作り出してしまうからです。
このプライドが行き過ぎるとどうなるのでしょうか?戦争です。
このプライドだけでやり始めたものではないと思いますが、アメリカがついにイラクに戦争をしかけました。9.11の痛み、それは酷いものでした。その悲惨さはよくわかりますが、本当の意味でアメリカがどれだけ傷付いているのか私たちにはわかりません。その傷のせいでしょうか。アメリカの多くの教会までもが今回の戦争に賛成しているというのです。
プライドがあればあるほど、私たちの目は真理に対して盲目になるのです。ですから、ヨハネの弟子達とユダヤ人の間で起こったというこの論争も、喧嘩になる危険性が十分にあったのです。
神さまが最も嫌われると言われる罪。それは「傲慢」、「プライド」です。そのプライドは人間の欲から来たものです。だから自分に栄光を帰そうとする思い、虚栄心です。
自分の存在価値を一生懸命見出そうとすると、私たちは努力して自分の価値を作り出し、そこにプライドを築きます。だからそのプライドが傷つけられたり、壊されたりすると、自分の存在価値が消されるかのような錯覚に陥り、自己防衛本能から人に攻撃をし始めるのです。
そのような私たちに神さまは何とおっしゃられているのでしょうか?先週の御言葉ですが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というのです。私たちはありのままの姿で良い、と言われているのです。努力したから愛されたのではない。自分を戒め、苦しめたから赦され愛されたのではない。私たちが私たちであるから愛されているのです。その証拠に、私たちを罪から救うために神の独り子が私たちの罪を背負って十字架について下さったのです。
私たちの心を探って下さい。神の前に相応しくないプライドをまだ持っていますか?持っていたら、それを十字架につけましょう。神は真実で正しい方ですから、私たちを赦し、清めて下さいます。
A 喜ぶことこそ私たちを幸せにすることを覚えよう
29節「介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」
私たちがプライドから解放されることは、私たちにとって非常に幸せになることです。それは嫉妬や妬み、必要以上に意地になる必要がなくなるからです。そうなると私たちは、他人の幸せを大いに喜び、祝福することが出来るようになるのです。
イエスさまは私たちに新しい戒めを与えて下さいました。それは「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)というものでした。そのことによって人々は私たちがイエスさまの弟子であることを知るようになる、(同13:35)というのです。
愛し合うのです。だから、他人の喜びを自分の喜びとして祝うことが出来るのです。そのような所にサタンの働く余地はありません。私たちは外の世界でたくさん人を批判する言葉、中傷する言葉を聞きます。その言葉を教会に持ち込む必要はありませんね。なぜならキリストがそれらの思いを背負って十字架について下さったからです。だから私たちは互いの重荷を覚えながら祈り、また喜びを共に喜ぶのです。
人を祝福して、共に喜ぶ。この喜びこそ人が持てる最上の喜びでしょう。その喜びをヨハネは当時の結婚の習慣に基づいて説明しました。
旧約聖書からの概念として、神の民イスラエルは花嫁。イスラエルを迎える神は花婿として考えられています。だから偶像礼拝は、神との婚姻関係を犯す大きな罪になるわけです。そして、結婚する時には花婿の友人が大きな役割を果たすのです。それが「介添え人」と呼ばれているものです。
彼は花婿と花嫁の間を取り持つ者としての役割を担います。そして結婚式の招待状を出し、結婚式では司会をし、花婿と花嫁を呼び入れるのです。さらに大きな役目として、その夜、花嫁の部屋の番をするのです。そこに偽りの恋人を入れないようにするのです。そして闇の中から花婿の声が聞こえると彼は喜んで彼を向かえ、花嫁と花婿を残してその場を喜びながら去っていく。彼の役目はこの二人を一つにすることなのです。これは最後には舞台を去り、消え行く役なのですが、同時に非常に誉れある務めなのです。
ヨハネはまさに神の民イスラエルと、神の子イエスさまの間を取り持つ介添え人としての務めを果たし、今その役割を終えようとしているのです。だから、彼は花婿であるイエスさまの声を聴き、非常に大きな喜びと共に舞台を去ろうとしているのです。
彼には虚栄心がなかった。与えられた務めを最後まで謙遜に務める者でした。だから、彼はイエスさまが来られた今、大きな喜びを持ってその身を引こうとしているのです。人の幸せを祝う時に自分自身が喜びに満たされるのなら、神のために喜び祝うその心にはどれほど大きな喜びがあるのでしょうか?
この喜びが、私たちの力であります。この幸いを頂きましょう。
B 主の前に衰えることこそ栄えることであることを覚えよう
30節「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」
初めて聖書を読む方。教会に来る方。又は時折クリスチャンの方からも聞く言葉があります。それは「聖書は難しい」という言葉です。「読んでも理解出来ない」ということですね。
その気持ちは理解出来ますね。何を言っているのだろう?と思うことがたくさんありますから。例えばマタイによる福音書。最初の方に「山上の垂訓」と呼ばれるイエスさまの説教が記されていますが、ここでは特に、私たちの持つ常識とは正反対のことが言われたりしているのですから。悲しむ者や泣く物、義に飢え乾く者が幸いと呼ばれたり、右の頬を叩かれたら左の頬をも向けなさいとか...
今日の最後の言葉もわかりませんよね。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」なんて。これがヨハネだけのものなら、まぁ人事として済ませることも出来るかも知れませんが、それが自分のこととしても関わってくるのであれば、「それなら私の人生は何だったの?」という疑問が生じて来てしまいます。でも、聖書は私たちの存在価値を認め、私たちが私たちであるゆえに愛されているというのですから、私たちが「衰え」るということにも何かしらの意味があるに違いありません。
最初の所で「清めにつていの論争」とありますが、まさにこのことこそが「清め」に関することであろうと思うのです。私は衰える。それはあくまでもこの世の基準で測った言葉なのです。実際に人々はヨハネのもとからイエスさまの方へと移って行った。やがてヨハネは投獄されて、人目に触れずに首をはねられ殺される。まさに衰え、滅びるだけなのです。
ところが、このヨハネについて、神の国の基準で測られた言葉によると何と評価されるのか。イエスさまの言葉を見てみると、こう言われております。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。(しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。)」(マタイ11:11)
この地上において、神の栄えのために衰え、滅び行くヨハネでした。でもそれは神の前にあっては彼ほど偉大な者はない、と言われるほどの功労者として誉れを受けているのです。
どちらが特でしょうか?この地上の生涯、残りが何年かはわかりませんが、数十年の誉れと、この世を去った後の永遠に続く世界での誉れ。考えるまでもなく、永遠に続く誉れですよね。
そしてこの誉れは、この地上に固執し、虚栄心、プライドがあると得ることの出来るものではないのです。なぜならこの地上では愚かなものとみなされているからです(1コリント1:18)。だから私たちはこの地上を生きる時、自分の欲、罪の働くこの体を十字架につけるのです。それはまさにこの地上において「衰え」て行くことであり、滅ぶことなのです。
パウロは言いました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2:20)と。
今日、決断をしませんか?私たちの生きた聖なる供え物として神に捧げ(ローマ12:1)、今生きているのは私のためにその身を捧げられたキリストに対する信仰によるものだ、と。その時私たちは主の栄えを見ます。そしてそれを心から喜び、祝います。このお祝いが礼拝なのです。
私たちの毎日の生活がこの礼拝になったならば、本当に素晴らしいと思いませんか。私たちの内に生きておられるキリストを讃美し、礼拝し、お祝いしましょう。