喬木教会礼拝説教
2003年3月30日(日)

神の真実を確認する

<ヨハネ 3章31〜36節>

◆天から来られる方

31「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。32この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。33その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。34神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が"霊"を限りなくお与えになるからである。35御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。36御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

 

@     神が真実であることを確認する幸い(v.33)

最近、2歳の娘が好きなアニメのTV番組をビデオに録りましたら、彼女は繰り返し繰り返しそれを見ます。ですからそのアニメをよく見るようになったのですが、TV番組ですからコマーシャル(CM)があるんですね。ある時、そのCMの中で、「真実は一つ!!」とかいうセリフが聞こえてきました。それは私立探偵のアニメで、事件を解決するのに真実は一つだ!!と言っているものでした。

以前カメラマンがやはりTVですが出ておりまして、言っておりました。カメラはいつも真実を写しだす!!と。歌を聴いても、ドラマを見ても「(この愛は)真実」という言葉が飛び交っているように思えます。

「真実」という言葉が溢れているのに、なぜか「一つ」と言われるこの言葉。不思議だと思いませんか?真実は一つになっていないので。たくさんある。それでも人はなぜか「真実は一つ」だと思いたいようで、その言葉を聞くとホッとするようです。なぜでしょうね?

おそらく、私たちは本当の意味での真実は一つであることを知っているのではないでしょうか?それは、「神」と呼ばれる存在がおられることです。そして、このお方こそが真実である、ということです。

地球上に存在する民族で、神を礼拝しない民族はいないそうです。どのような神であれ、人は神を認めている。このことは不思議だと思いませんか?そして「自分の神こそが真実」と思える方は非常に幸いだと思うのです。なぜなら人は常に真実を求めているからです。ですから、真実な神に出会うことこそ、人が本当の意味で幸せになることなのです。

日本においては「進化論」が「真実」であるかのように教えられております。ですから、多くの人はこの進化論的な考え方が身に染みてしまい、その罠にはまっている方が多いのです。

進化論。それは一つの信仰です。科学的には何も実証されていない論なのです。ですから、これが本当にあったことなのだ、と本気で信じている方は、意外と少ないですね。でも、何となく信じている方は非常に多いのです。その結果どうなるでしょう?

微生物が進化して人間になる。徐々に大きく、立派な存在になっていく。であれば人間が神になってもおかしくない。そこで人間の神が登場する。人間を神とする。またその神業とも言える人間の手で様々な神々が生み出されていく。完璧になれない人間が次々と神さまを作り出していくのです。「真実」はどうなるのでしょう?どんどん薄められ、消されていく。そして消された「真実」をまた探してさまよう。これが進化論のもたらす影響です。

では、進化論と正反対の所に位置するものは何でしょう。それは「創造論」です。全てを偶然の産物とする「進化論」に対して、「創造論」では偶然が存在しません。全ては創造された方のコントロールのもとに事が行われているのです。

ですから、私たち一人ひとりが存在するのも、全てはその創造した方の意志(ご計画)によるものなのです。この方が全てを造り、さらにそれらの秩序を保ち、維持しておられる。そう考えるのが「創造論」です。そしてこの考え方は、論理で考えた方が納得できるものなのです。

例えば、宇宙の膨張するスピード。このスピードが今よりもほんの少し(10の55乗分の1)でも速いか遅いかしたら、生命が存在することの出来ない世界になっているそうです(『誰とも同じではない「あなた」』石井希尚著より)。偶然の産物が、10の55乗分の1で物事を調節出来るのでしょうか?そう論じて信じる方がおかしいでしょう。

人間を造られ、生かしておられる神。この神さまを知り、そのお方こそが真実であることを認め、その方向に生きていくことこそが、人が人として本来の姿に戻れる道なのです。だから、私たちは真実を求めるのです。そこにこそ私たちの幸せがあるのです。

 

A     人は霊であることを知ろう(v.44)

この真実を確認するために、一人のお方が地上に送られました。その方は真実であるお方から限りない霊を注がれた方のようです。そしてこの霊によって語られたことを、確認する時、私たちは神の真実を知ることが出来るようです。

また進化論の話しになりますが、この進化論の分類で「霊長類」という言葉がありますね。これはどうも人間を含めて多くの動物も含まれるようです。(霊長類=哺乳類の一目。サル目。進化的にはモグラ目(食虫類)から分かれ、歯、四肢は特殊化していないが大脳がよく発達、顔は丸く、両眼視できる。指は物をつかむのに適する。殆どの種が、どの指かに扁爪(ひらづめ)を持つ。多くは森林の樹上にすみ、昼行性。ヒトを含めて、12科約60属120種『岩波書店 広辞苑』)

でも、霊長類は霊の存在ではないようです。自分を霊長類として、他の動物と同じと考える時、私たちはせっかく神さまから頂いている「霊」の力が弱まります。その時、真理として語られた言葉に対して耳がふさがれ、真実をどうしても確認できなくなり、真実を求め続けるものになってしまうのです。

私たちに対して、神は真実を示されますが、その方法は、霊を限りなく注がれた方を遣わし、その方の言葉によってのみ示されるのです。だから、私たちも周波数を合わせるように、自分の霊をこのお方の霊に合わせると、その語られたことがわかるのです。

人はもともとこの神の真実を知る霊を持っているのです。ところが、人は自分の持つ多くの汚れによってその霊を覆ってしまうのです。だから霊の語ることが理解出来なくなるのです。そのためヨハネは「だれもその証しを受け入れない」と言います。霊が覆われ、自分の内に霊があることを認めない人々にとっては、その証を受け入れることは非常に愚かに見えるのです。

でも、本当に真実を知りたいと思ったらその霊の力を引き出さなければなりません。では、どのようにして引き出すのでしょうか?

まず、私たちは自分が霊を持っている存在であることを認めます。そしてその霊を造られたお方、そして霊を与えて下さった方を認め、そのお方に顔を向けます。そのお方はご自身を「光」と言っておられます(ヨハネ1:4)。この光の内に自分を見て、霊を覆っている様々な思い、汚れを取り除きます。

その思い、汚れは、今まで世の造り主である神を見てこなかったこと。真実に対して無関心であったこと。自分の力を絶対とし、神の位置に自分を置いていたこと。その他に、自分のもつ悩み、性格上の問題、コンプレックス、拭い去ることの出来ない罪や咎、人を妬む思いや、嫉妬心、自分が注目され、大きく見せたいという虚栄心、そして、神という存在を間違って理解いたことなどです。

これらの思いがある時に、私たちの自分の霊は隠され、窒息状態になっております。もともと霊の存在として造られている人間ですから、自分の内の霊が窒息状態にあるなら、決して心からの平安や喜びはありません。

ではそれらの思いを捨て去り、自分の霊を生き生きさせるにはどうするのでしょう?聖書はこう語っています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます(使徒2:38)と。

悔改める。何かただ反省して、自分が悪かったと自分を戒めるような言葉に聞こえますが、それだけではありません。それだけでは「悔い」だけでしょう。ですから、自分が悪かったそのことを、私たちの代わりに十字架で死んで下さったイエスさまに負わせてしまうのです。その時に「改める」ところまで私たち導かれます。

そして洗礼を受けるのです。この時に私たちは賜物、贈り物として聖なる霊を受けます。この聖霊を受ける時、人は本当に変わります。今まで意識していようがいまいが、スッキリ出来ていなかった部分がスッキリするのですから。その時から、新しい人生が始まります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(2コリント5:17)という生涯に入るのです。まさに「改まる」のです。そして聖書で言われることが段々と理解するようになります。そこに心からの幸福を感じられるのです。

私たちは霊を持っている存在です。だから、霊のものとして生きるべきではありませんか。今、自分の内にある霊を大事にし、それを生かすようにしましょう。

 

B     永遠の世界に目を向けよう(v.36)

教会では「永遠のいのち」という言葉が良く使われます。「永遠」という時間の概念を皆さんはお持ちでしょうか?この「永遠」について考えるだけで、私たちは苦労するような気がします。

日本では輪廻転生の考え方、又は死は全ての終りという考え方が定着しております。だから、死=終り、という概念があり、その後に続く永遠の世界に目を向けることが出来ません。

そしてどうも「永遠のいのち」というと、「永遠に生きたくない」という思いを抱いてしまうのですね。「ただでさえ苦しい人生を送っているのに、これが永遠に続くなんて、これはえらいことだ!!」と思ってしまうのです。

でも、考えてみて下さい。神さまは真実な方。このお方は、私たちが悔改めることで本当に素晴らしい生涯に招き入れて下さるお方です。そのお方が、なお私たちに現実と変わらない、苦しみのある永遠の世界を用意し、そこに入れるようなお方でしょうか?そうであれば、神の姿は矛盾してしまいますね。

私たちを罪やとが、不幸せから救い出して下さる方が用意している永遠の命です。であるならば、その永遠の世界はもう苦しみもなければ悲しみもない、真実に満ちた素晴らしい世界であるはずではありませんか。

もし私たちの将来に、輝かしい永遠の慰めと喜びに満ちた世界があり、その世界が私たちを待っているのであれば、私たちの今の現実はどうなるでしょうか?

「死んだらおしまい」そう思っていた世界が、「死んでなお永遠の幸福がある」となるのです。私たちはあまり意識していないでしょうが、「死んだらおしまい」この思いが根底にあるので、否定的な考え方が生じてきてしまうのです。その否定的な考え方の根っこが無くなったらどうなるのでしょうか?

全てが肯定的になりますね。今の目の前にある困難。これも喜びに変わります。苦しい環境かもしれない、でもそこに感謝が生まれてくるのです。憎むことしか知らなかった心に、愛し、受け入れるという思いが生じてくるのです。意気消沈しそうなその状況の中で、底から力が沸いてくるのを感じるようになるのです。

私たちが本当に力強く、幸福と喜びに満ち溢れて生きていく源になる力、それが永遠の命、すなわち神の子となることなのです。

そして、この永遠の命はどのようにしたら得られるのでしょうか?36節を見ると、「御子を信じる人は永遠の命を得ている」とあります。苦行を積んだら、厳しい修行に耐えたら、たくさんお布施をしたら、じゃない!!「御子(イエス・キリスト)を信じる人は」なのです。信じることなのです!!

信じるところから、私たちの生活は一変します。この恵みを自分のものとしませんか?

そして、慰めと喜びと力に満ちた、新しい生涯を送って下さい。神さまはあなたを愛しておられます。