喬木教会礼拝説教
2003年4月13日(日)
御言葉を聴き、主に従う
<創世記 17章1,2節>
◆契約と割礼
1アブラムが99歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。2わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
@ まず神さまが語られたことを覚えよう(v.1)
最初にまず質問させていただきますが、私たち人間は、どこから来て、どこに行くのでしょうか?
孔子という人は、「朝、真理を悟ることが出来たなら、夜、死んでも良い」と言ったそうです。世の哲学者や宗教家も、常に「真理」を求めています。
真理と言うと、何か大げさな気もしないでもないのですが、要は、自分の立っている場、自分が何者であるのか、自分は何処へ向かって生きている者であるのか、これらのことが知りたいのです。なぜなら、私たちは本能で知っているのです。真理を得る時に、私たちは自由を得る、ということが。[「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)]
聖書は、この真理について明確に語られています。誰も、「自分は真理です」と言える人はいないと思うのですが、イエスさまははっきりと言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。
私たちが幸せになる、自由になる、そのために必死に求めていた「真理」は、実は私たちのすぐ身近にあり、そして私たちが得る事が出来るように開かれているのです。
聖書の語る真理、それはこの世を造られたお方から始まるのです。当然でありましょう。この世が造られ、人が造られ、秩序が定められ、全てがバランスよく保たれている。これら全てを支配しておられるお方を抜きにして、色々と考えてみても、決定的な結論に達するわけがないのです。
3月末の夕拝で、吉村師に説教をしていただきましたが、非常に印象的でした。ヨハネ1章1節からでしたが、そこには「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。初めにあったのは言葉。神の言葉。だから、私たちの生活も当然神の言葉によって始まるものでしょう、ということでした。
科学を研究する方々も、全てが偶然に出来ているのではない、と認めております。神と呼ばれる存在がなければ、私たちの生命はなかった、と認めているのです。ただし、その神を「Something Great」とか「宇宙意志」とか呼んでおりますが...
この世を造られたお方を知る。それが真理を知ることの始まりであって、自由を得る、幸せを得るための第一歩なのです。ところがそのことに気付かなくなってしまった人間。真理に鈍くなった私たち。その私たちのために、神の側から近寄って来てくださり、その真理を提示してくださったのです。そして聖書という神さまからのラブレターを与えて下さったのです。
聖書は、英語でBibleと書きますが、ある人が「Basic Instruction Before Leaving Earth(世を去る前の基本解説書)と言いました。(「瓦礫の下から」ウエイン・コデイロ著)
言葉である神が、天地万物を造られた偉大な神が、私たちのために近寄ってきて下さり、最高の真理を与えて下さったのです。だから聖書を見ると、私たちがどうこうしたから神の呼びかけがあった、ではなく、常に神の側から私たちへの語りかけ、働きかけがなされているのです。
偉大なお方が私たちの方に歩み寄って下さっているのです。そしてこのお方に聞く時、私たちは真理を見出し、自由を得るのです。全ての人に平等に与えられている恩寵ですから、これは受け入れた方が得ですよね。ですから、このお方に聞くことから全てを始めましょう。
A
従うことを求められていることを覚えよう(v.1)
私たち人間に、聖であり、義である最高の権威者が現れ、語りかけて下さいました。
では、その語りかけに対する私たちの対応はどうあるべきでしょうか?聞く、ということはどういうことでしょうか?
私たちに与えられている素晴らしい習性の一つに、「住めば都」と言う、どこでも慣れてしまうことができる、というものがあります。慣れる。これは非常に素晴らしい恵みですね。慣れることが出来なければ、いつまでも苦痛が続くこともあるのです。
でも逆に、慣れが行き過ぎてしまい、慣れたその所から動くことに恐れを持つ事もあります。チェルノブイリで原発の事故がありましたが、その付近の村に住んでいる住人が、経済的な事情もありますが、住み慣れた土地を離れたくない、と言って「我がままの頑固者」と呼ばれてもそこを離れず、汚染された食料を食べ続けている、という話を聞いたことがあります。
住み慣れた土地、人間関係、環境を変えること、そのことのためには勇気が必要です。変わった先に何があるかわからないからです。幸せになるかも知れないし、不幸になるかも知れないからです。だから、今まで平穏無事でやってきたなら、前例にないことはしない方が良い、私たちは自然にそう考えてしまうのです。
では、永遠の存在であり、全てをご支配なさる神さまは、私たちに何を求めておられるのでしょうか?いつまでも同じ所に留まることですか?そういう時もあります。また移動したり、旅に出たりすることを求めることもあります。アブラムは神さまから言われて、住み慣れた地を離れ、旅をしていたのですから。
もし私たちが、真理の言葉を本当に自分のものにしたい、と願うならば、私たちは真理のお方が語られた言葉に素直に聴き従うべきなのです。
イエスさまはとても魅力的な人物でありました。立っているだけで周りに人が集まってきてしまう。そして語り出せば誰もが静まり耳を傾ける。大工さんだったので、力も強かったことでしょう。男性からも女性からも好かれるので、男前だったと思います。幼い頃より知恵があり、その頭の良さには学者達が驚く程でした。そんなお方ですから、もし彼が自分で何か事業を始めたならば、大成功したでしょうし、権力を求めれば得ることが出来たでしょう。
そのお方がしたことは何だったのでしょうか?父なる神の御声を聴くことです。それを聴き、行うことでした。だからイエスさまは自分が語りたいこと、やりたいことではなく、全て神さまが求めていることを語り、行ったのです。その結果は、十字架の死でした。でも十字架の死に至るまで、徹底して謙遜に神に従い続けたのです。それが私たちの救いとなりました。
私たちは何を基準に自分の行動や考え方を決めていますか?自分の習慣ですか?一般論ですか?教養ですか?それとも神さまの言葉ですか?
永遠という時の中から、私たちの将来のために、貴重なアドバイスを下さるのが神さまです。であるならば、その声を聴くことによって苦しみを身に背負うことになっても、将来的には最高の約束を手に入れ、一番幸せになれることを知ることが出来るのではないでしょうか。そうであるなら、このお方から語られたことは、実行する方が良いでしょう。ただ聴くだけ、ではなく、聴いたことを実行しましょう。自分の生活の中で、このお方に従い、言われたことを行うのです。
B
契約を守ろう(v.2)
神さまの契約とはどのようなものでしょうか?私たちを不幸にするものですか?いいえ。幸せにするものです。でも、それは「契約」と呼ばれております。「契約」とはどのようなものでしょうか。
広辞苑を見ると、「[法]対立する複数の意思表示の合致によって成立する法律行為」とあります。互いの合致が必要なんですね。何となく私たちは「まぁまぁ」とか、「人情」とかで曖昧にしてしまうのが好きなのですが、契約関係にあると、そうはならないのです。契約を結んだら、その契約を守らなければならないのです。守らなければ、それ相応のペナルティが課せられてしまうのです。
私たちは洗礼を受ける時に、神さまと契約を結んでいるのです。それは結婚の契約と同じです。私はどんな時でもあなたを愛し続けます。という契約です。その契約で、神さまは私たちを神の子として下さり、永遠の命を約束して下さったのです。
今年度、喬木教会では、以前から、というよりクリスチャンであるならば当然のことではあるのですが、御言葉に聴き、主に従うことを具体的に行っていくことに心がけたいと思っております。後の総会で審議することではありますが、デボーション用のノートを教会で購入し、皆さんにお配りしたいと思っております。
なぜそのようなことをするのか?答えは簡単ですね。それが素晴らしいことだからです。真理であるお方の言葉に耳を傾ける。これだけでも素晴らしい。でも、それを実行することはさらに素晴らしいのです。そしてそれが私たちの契約を守ることでもあるのです。デボーション・ノートの配布については後で皆さんに意見を言っていただければと思いますが、とにかく御言葉に聴き、実行することは、本当に素晴らしいことなのです。
なぜなら、神さまは御言葉から反れず、神さまに従っていくならば、その恵みは千代にまで及ぶ、と約束して下さっているからです。その約束を実証する一つになるのでしょうが、今日の箇所のもっと後ろにある神さまの約束、この約束が1948年5月に成就しているのです。イスラエルという国が誕生し、そこにアブラハムの子孫、ユダヤ人が帰還しているのです。
今から4千年も前に与えられた約束でさえ成し遂げられる。永遠の契約だから当然なのです。
私たちが御言葉に従い生活するならば、この契約によって、私たちは恵みから恵みへ移されるのです。非常に感謝なことです。与えられた契約を感謝しつつ、御言葉に従っていくものでありましょう。