喬木教会礼拝説教
2003年4月20日(日)

生ける水を頂く

<ヨハネ 4章1〜15節>

◆イエスとサマリアの女

1さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、2――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――3ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4しかし、サマリアを通らねばならなかった。5それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 

@     主の通らねばならぬ道(v.4)

当時、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪く、付き合うことをしませんでした。その理由は、B.C.720、アッシリヤによって北イスラエル王国が滅ぼされてから、イスラエル人は外国人と結婚するようになり、血の純潔を守らなくなったからです。ユダヤ人は血の純潔を非常に重んじるため、混血の民であるサマリア人を軽蔑していたのです。そのため、ユダヤからガリラヤへ移動する時にユダヤ人が取るルートは、サマリアを避けてでも遠回りするルートでした。

サマリアを避けて通る道が普通ですから、イエスさまは何も「サマリアを通らねばならなかった」ということはなかったのです。でも、イエスさまはサマリアを通らねばならなかった。なぜでしょうか?その後の記事にその理由が記されています。

サマリアには、傷付き、苦しんでいる一人の女性がいたのです。この女性を通して神の御業を現すため、イエスさまはサマリアを通らねばならなかったようです。

このことは、一見、神の業なので何の問題もなく行われているように見えるのですが、大変なことであったと思うのです。

当時、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、付き合うこともしない、その村を通過することもしない。そのような中に入っていくのです。これは、クラスの中で皆からいじめられている一人の人を救い出そうとして、自分がいじめられることを覚悟して全員に立ち向かっていく勇気に似ているのではないでしょうか。

この歩み方。イエスさまの生涯は、まさにこの歩み方を徹底して行われていたのであります。

もともと神であったお方です。このお方が神と等しい身分を捨て、人間となって下さった。完璧であり、全てを支配されているお方が、不完全で欠けだらけの人間と同じ姿になるのです。何不自由なく過ごしていたお方が、不自由の世界に、もっとも不自由な者としてきて下さった。これだけでも賞賛されるに値する行為です。

そのお方はさらに低い所を歩まれました。馬小屋に生まれ、一番低い人よりももっと低い場所を歩まれたのです。住む家もない、枕する所もない、そんな歩み方です。人のためになることしかしていないのに、人々から文句言われ、命を狙われる、そんな歩み方です。

それでも主は、「サマリアを通らねばならなかった」のです。なぜでしょう?

その理由は、私たちを救うためでした。私たちを救うために、私たちの一番弱い所歩まなければならなかったのです。そのためにサマリアを通らねばならなかったのです。

主がそこを通って下さったから、今私たちに救いが与えられている。そのことを覚えたいと思います。

今日はイエスさまが復活したことをお祝いする聖日です。主が、自ら進んで、もっとも蔑まれた所を歩み、歩みぬいて十字架について下さった。その結果の復活であることを覚えましょう。これが、私たちのために、主の通らねばならなかった道なのです。

 

A     声をかけて下さる主(v.7)

イエスさまはサマリアを通る途中で腰を下ろしました。そして一人の女性に声をかけています。どうやらイエスさまは、この一人の女性に会うために、「サマリアを通らねばならなかった」ようです。

この女性はどのような人物でしょうか?今日読んだ後の箇所に彼女の様子が詳しく記されておりますが、5人の人と結婚していた経歴の持ち主です。現在は「バツ1」、「バツ2」などと離婚暦が誇りにように扱われることさえある時代ですが、当時はそうは行きません。一度でも離婚になるならば、末代までの恥となるほどに恥ずかしい、また屈辱的な、恐ろしいことです。

さらに離婚には心の傷も伴うでしょう。5回も結婚した。希望もなく結婚するでしょうか?おそらく結婚する度に「今度こそ幸せに」と思っていたと思います。でもその度に裏切られ、傷付けられ、分かれる。だから6人目の人とは結婚が出来ないのです。

そして結婚を繰り返す彼女を、村の人々は快く思いません。いつも後ろ指差されていたのでしょう。そのため、この女性は正午頃に水を汲みに来ているのです。一般的には涼しい朝か夕に水を汲みに来るそうです。でも後ろ指差されたくない彼女は、誰もいない時間を見計らって、一番暑い、大変な時間に水汲みに来たのです。

「こんなはずでは...」という思いを繰り返し繰り返し抱きながら、傷付き、人間不信になり、半ば自暴自棄的になっている彼女。イエスさまのこれからなさろうとしている計画の前には、彼女の存在は小さいものに見えるかも知れません。でも、イエスさまはそのような彼女のために、「サマリアを通らねばならなかった」と言って、サマリアに来て下さったのです。そして彼女に声をかけて下さいました。

彼女は、イエスさまから声をかけていただいたことで、どれほどその心は晴れたでしょうか。中傷する声ではなく、自分を必用とし、自分に助けを求めてくる声です。人は「自分は必要とされている」と感じる時に、生きている喜びを覚えるものです。この女性は、イエスさまから声をかけられることで、そのような喜びを見出したのだと思います。そこから、イエスさまとの会話が始まったのです。

私たちの側で神さまを捜し求めて見出す、のではない。神の側からその存在を現してくださり、声をかけて下さるのです。神の存在に触れることによって、私たちは初めて心が満たされる経験をするのです。

このサマリアの女と同じように、コンプレックスを持ち、心に傷を持ち、自分で自分を傷付けてしまう、そんな弱さを覚えることがありませんか?主はそのような私たちのために、神の姿を捨て、私たちの傍らに立ち、今、声をかけて下さっております。このお方の呼びかけに耳を澄まし、応答していきましょう。私たちの人生が造り変えられる時がその時であります。

 

B     永遠の命に至る水を頂く(v.14)

イエスさまは、サマリアの女に水を求めました。でも話の中で、いつの間にか彼女の方が「生ける水」をイエスさまに求めるようになっております。またイエスさまも、「あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と言って、水を与える準備が整っていたようです。

生きた水とは一体何のことでしょうか?サマリアの女は、井戸に水を汲みに来ました。この水は、日本人が簡単に飲めるような水ではないようです。ある人は、「きな粉を口に含んで、そのまま水を飲んだみたいだ」というような、そんな水だったそうです。生ける水とはそれとは対照的に、流れのある水、清水のような水のことだそうです。

女は、生ける水を与える、と言われ、清水をもらえると思ったようです。でもイエスさまは言葉を加えて説明しました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と。


家のどこかに蛇口を作って、いつでも乾かないようにする、というのではなく、「その人の内」で泉が出来、永遠の命に至る水が湧き出ると言うのです。

「永遠」という時間を考えて見て下さい。私たちの住む世界には、永遠に存続するものがありませんね。電気機器にしても、自然にしても、永遠に変わらず、その働きを留めるということは出来ないことであります。だから、「永遠」という言葉を聞いてもなかなかピンと来ないので、その有難さがよく理解出来ません。

では有限である私たちの世界を見る時にどうでしょうか?有限であるがゆえに、いつ切れる(消滅する)か分からない不安を常に抱えております。だから、否定的な考えが私たちを支配するようになります。なぜなら、人間そのものが有限で、やがては全ての人が死という終りの時を迎えるからです。

でも、イエスさまは「永遠の命に至る水がわき出る」と言われたのです。死が滅ぼされ、永遠の世界が広がると言われたのです。

主がかかった十字架。それはまさに呪いの象徴でした。この十字架上でイエスさまは全ての者を不安に陥れている死に飲み込まれたのです。ところが三日目、主はこの死を打ち破り、復活しました!!主が復活されたということで、今まで漠然とし、人を不安に陥れていた死が逆に飲み込まれたのです。今、私たちの前には「復活」という命が示されているのです。

主は求める者にこの水を与えると言われます。永遠に尽きることのない水。命。これが与えられるのです。そのために、主の十字架、それが私たちのためであったことを覚え、心に主をお迎えしましょう。