喬木教会礼拝説教
2003年4月27日(日)

まことの礼拝

<ヨハネ 4章16〜26節>

16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 

@     自分の本当の姿に気付いていますか?(v.17)

動物と人間の違いって何でしょうか?よく道具を使うこと、と言われるのですが、道具を使う動物は実はたくさん存在します。また、コミュニケーションも動物同士で持っているので、人間社会のような組織も存在します。何が違うのでしょうか?

それは、「礼拝」という点のみが違うようです。神という存在があり、神を礼拝する。この点が他の動物とは違う点だといわれているのです。

 

礼拝を捧げる=人間らしい生き方。となるわけですが、現代に生きる私たちは、「忙しさ」に追い立てられて、なかなか「礼拝」をする時間が取ることが出来なかったり、またそれを大事なこととして捉えることが難しくなってきているようです。

礼拝する、という点でのみ他の動物との違いがあるのに、なぜその礼拝が難しいことになっているのでしょうか?

 

その一つの理由としては、私たちは自分の本当の姿に対して無知にさせられている、ということがあると思います。「バーチャル・リアリティ」という言葉が一時期流行っておりましたが、実際に体験していないことでも体験しているかのように見せるものです。音や視覚でそのような感覚を楽しめるものでしたが、この感覚が、私たちの気付かない所で、しかも生活の中に浸透しているような気がします。

 

行事や買い物、レジャー、仕事。忙しい中で自分は満たされ、これ以上何か余分なもので自分を満たすことは出来ない、という気にさせられてしまうのです。

 

では、本当に私たちの心は満たされていますか?心にはもう空間は残っていませんか?

 

イエスさまは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と女に言いました。イエスさまと出会い、そのイエスさまから声をかけられ、「夫を連れて来なさい」という言葉に彼女はハッとしたのです。

イエスさまに「わたしには夫はいません」そう答えた彼女ですが、この時本当の自分の心と向かい合ったのです。かつて5人の人と結婚し、現在は同棲中。彼女の生活はそれで幸せになるはずだった。この現状で心にはもう何かが入り込むスペースは無いように思えていたのです。

ところが、本当は自分の中には満たされていないスペースがあり、そのスペースを埋める何かを求めていたのです。

 

本当の自分の姿に気づくとき、心には他のものでは満たすことの出来ない空間があることを知ります。

この空間を満たすのは「礼拝」です。イエスさまはこの「礼拝」に私たち一人一人を招いておられます。

 

A     霊をもって礼拝をしましょう(v.22)

自分の生活を言い当てられた女は、イエスさまを預言者だと思います。そして礼拝する場について尋ねました。なぜ彼女は礼拝する場について聞いているのでしょうか?

 

サマリヤの人々は歴史的に、何でも自分に都合の良いように物事を解釈するクセがあったようです。ソロモンの死後、南北にイスラエルが分かれますが、その時から、当時の主権者ヤロブアムは南のユダに対抗するために独自で金の像を作り、偶像礼拝をしました。それからの歴史の中でも、事実を曲解してはサマリアにある山を神聖な場とし、そこで礼拝するようになっていたのです。

 

サマリアの女は、イエスさまを通して神の存在に触れ、自分の心が満たされていないことを知り、そして礼拝するように導かれ、彼女の心が動いたのです。ところが、歴史的にサマリアではゲリジム山が礼拝の場とされてきたが、ユダヤからイエスさまに礼拝を求められると、神聖な場所はエルサレムということになる。では、本当に神を礼拝しようとしたら、どこですれば良いのか?彼女には理解出来ないことでした。

 

イエスさまは答えました。「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と。

礼拝において大事なことは、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって」礼拝することが大事だ、というのです。

 

人は神さまによって形造られ、その鼻に神の息吹が吹き込まれて生きる者とされました。この息吹をヘブル語で「ルアハ」と言いますが、これは「息、霊」と訳される語です。ですから、人は神の霊を吹き込まれて生きていると考えて良いと思うのです。

 

霊である神を礼拝するのですから、私たちの命の源になっている部分、霊において礼拝しなければならない、ということです。

私たちにとっての「霊」とはどのようなものが含まれるのでしょうか?

それは神さまと同じ性質の部分のことです。ですから、神さまに対する愛、誠実、感謝や喜びということです。

神さまへの礼拝は、決して宗教行事ではなく、生ける神さまとの生きた交わりのことなのです。

生きた交わり、それが礼拝となります。霊をもって礼拝しましょう。

 

B     まことの礼拝をしましょう(v.24)

イエスさまは、「霊と真理をもって礼拝」をするように命令しておられますね。

霊をもって、というのは先程みてみました。では「真理」とはどういうことになるのでしょうか?

考えて見ると、「真理」という言葉が使われているのですから、「偽り」ということもあるのではないでしょうか。

バークレーという人は、偽りというか、誤った礼拝として三つのことを指摘しておりました。簡単にまとめると以下の通りです。

(1)     一面的な信仰になる:都合の良い部分だけを取り入れ、他は排除する

(2)     無知になる:なぜ信じるのか、その理由は考えない。感情を重視して、知的怠惰という罪に陥る。宗教とは希望であるが、理由のある希望である。

(3)     迷信的になる:「これをしないと危険」という気分から、「礼拝しないと」となる。

 

「クリスチャン」というと、意外と堅苦しい人を想像されてしまうことがあります。「礼拝」というと、やたらと堅苦しくて息苦しいと考えられることがあります。

でも、「真理の礼拝」であるならば、そこには堅苦しさや、息苦しさはなく、霊を通して神さまとの和解から喜びの交わりがあり、その中で人は教えられ、戒められ、誤りが正され、義に導く訓練がなされる、素晴らしいものになるのです。

 

礼拝、教会では毎週日曜日にこのような礼拝が持たれておりますが、この礼拝をただの形式とするか、またはこれを「霊と真実とをもったまことの礼拝」とするかは、私たちの心しだいなのです。

主の霊に導かれ、十字架の赦しのもとで、幸いな礼拝を捧げ続ける者でありましょう。