喬木教会礼拝説教
2003年5月4日(日)

霊の糧

<ヨハネ 4章27〜42節>

27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 

@     喜びの解放(v.28)

イエスさまと会話をしていた女性は水がめを置いてその場を去りました。何処に行ったのでしょう?

彼女は、自分を指差し、噂話を、避ける人々の下へ走っていったのです。なぜでしょうか?

29節にありますが、自分はメシアに会った、と人々に告げるためだったのです。

それを聞いた町の人々は町を出て、イエスさまの所にやってきました。

 

町の人々は、先週見たように、この女性を軽蔑していました。結婚を繰り返し、姦淫を犯す女として見ていたのです。ですから、普段彼女が何かを言ったとしてもおそらく耳を貸さなかったでしょう。関わりも持ちたくないと願ったでしょう。

ところが今回は彼女の言うことに耳を傾け、彼女の言ったことを確かめに町を出るという行動まで起こしております。何が町の人々に起こったのでしょうか?

 

彼女の姿が人々の心を動かしたのです。

人には、見るものに似てくるという習性があります。サマリアの女は、「幸せになりたい」という願望から、後ろ指を指される人生を送るようになりました。彼女は人々から嘲笑される自分を見つめ、その自分と戦いながら生活していたのです。彼女がいつも見つめていたのは、人々からあざ笑われる自分です。だから彼女自身、いつの間にか「一番なりたくない自分」になっていたのです。彼女は彼女自身に縛られていたのです。

 

町の人々が知るサマリアの女は、非常に束縛された、冴えない女性だったのではないでしょうか。

ところが、今自分たちの町の通りで騒いでいる彼女は、確かにサマリアの女なのに、いつもと違う。輝いているように見える。ずっと裁判で戦っていた人が無罪判決を勝ち得て喜んでいるような、そんな不思議な彼女を見たのです。人々は彼女の身に何が起こったのか、その姿を見るだけで興味をそそられるでしょう。

それで普段なら気にも留めない彼女の言葉に心動かされ、彼女の言う預言者、メシアを見に行ったのです。

 

イエスさまは私たちに「解放」を与えて下さるのです。何からの「解放」ですか?

私たちを縛っていた過去の自分。傷付いた自尊心。愛を求める欲求。私たちの心と体を縛る罪からです。

これらから解放される私たちは、人々に光を放つのです。人々の心を動かす者に変えられます。

主はあなたの心を解放したいと望んでおられます。主をお迎えし、解放されましょう。そして、人々を主に導く者として輝きと喜びに満ちた人生を歩みましょう。

 

A     御心を行う喜びに満たされよう(v.34)

弟子達が戻って来て、イエスさまに食物を差し出します。疲れと空腹で座って休んでいたイエスさまですが、その食物を受け取らず、なお自分にはあなた達の知らない食物がある、と言うのです。その食物とは何でしょうか?

 

34節で食物を教えて下さいました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と。

人には基本的な欲求がありますね。食欲とか性欲です。生きていく上で非常に重要なものです。特に食欲は毎日必要です。私たちは思うのです。食欲がなくなると死んでしまう、と。

 

最近はよく健康法の本を読みますが、その中で共通して言われることは、自分本位の生き方ではなく、他人本位の生き方をするようにということです。

食事をしなければ他人のために動く力も出ない、と思ってしまうのですが、「何かをするためにまず自分を」と考える時点で自分本位だと言われておりました。それを見て、聖書の「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という戒めを思い出しました。医学的にもその生きた方は良いようです。

 

イエスさまは徹底して他人本位で生きた方でした。しかも、他人を通り越して、全てを神のために生きたのです。イエスさまは律法で一番重要な戒めとして、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」と答えておられるのです。その次が隣人を愛することでした。

だから主は、何よりも神を愛し、このお方に仕え、その結果として隣人を愛し、仕える生き方になっていったのです。

 

イエスさまのその最後は死でした。それも十字架の死です。

神さまの御心を行うことで食欲さえにも縛られずに生きたこのお方の最後は、十字架でした。私たちはこの死をどう受け取りますか?愚かと見ますか?どうせ十字架なら、ある程度は自分の欲を満たしておいた方が良いと思いますか?

主が食欲よりも、御心を行うことに力を注いだ結果、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、全ての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」(エフェソ1:20,21)

このお方が私たちの罪を背負って十字架について下さったことにより、私たちはこのお方のご性質に似た者とされる恵みまで頂いたのです。

 

私たちには様々な誘惑があるでしょう。欲望があるでしょう。

現在の私たちは、主が蒔いて下さった様々な実を刈り取ることが出来るような状態にあるのです。自分の罪から始まり、欲望まで十字架につけ、御心を行う喜びによって生活をしていけるものでありましょう。

 

B     自らの決断(v.42)

人間の最初の罪を見てみると、私たちは本当にその罪を受け継いでいるのだなぁと思わされます。

最初の人間、アダムとエバは、神さまから食べるなと言われた実を食べました。そのことが神さまの前に明らかになった時、彼らは何と言ったでしょうか?

アダムは「あなたが私に与えたこの女(妻)が私に食べろと言ったのです!!」。エバは「あなたが造られたこのヘビが私をそそのかしたのです!!」。

彼らは、自分は悪くなく、この人が悪い、この環境が悪い、このことを赦した神さまが悪い、といつでも責任転嫁をしてしまうのです。これが人間の持っている罪の原点かも知れませんね。

 

私たちの救いは、他の人の導きで与えられたものです。

サマリアの人々は、一人の女性によって導かれ、イエスさまを知りました。ローマ書には、「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いた事のない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことが出来よう」(10:14)とあります。

神さまを信じるためには、それを伝える人が必要なのです。神さまの御業は私たちを通して行われるからです。

 

しかし、伝えられたものをどうするかは、伝えられた側が決断するのです。伝えた人が代わりに決断し、救いを受け入れる、ということは出来ないのです。

伝えられた側が、信じて救いを得るか、今まで通りの道を歩むかを決断するしかないのです。この点において、私たちはいくら責任転嫁しても、神さまの前では無益であることを覚えておくべきでしょう。

 

サマリアの人々は、女から伝えられた知らせを確かめにイエスさまの所に来た。そしてイエスさまから直接福音を聞かされ、そして彼らは信じました。そして女に言うのです。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」。

 

イエスさまに耳を傾ける時、このお方が救い主であることがわかります。

そのお方を信じる信じないは、こちらの決断によるのです。このお方が救い主であることを知った私たちが、このお方に聞き従うか、自分の生活を優先させるかも私たちの決断しだいです。

イエスさまは「全ての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれたお方です。私たちの意志で、私たち自身の決断で、このお方のもとに行き、このお方に従いましょう。

主に望みを置く者は決して裏切られることはありません。この望みこそが私たちを常に力で満たす、本当の糧なのです。