喬木教会礼拝説教
2003年5月25日(日)

言葉を信じる

<ヨハネ 4章43〜54節>

43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。

46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

 

@ 故郷で歓迎されたイエスさま!?(v.45)

イエスさまは故郷に着く時、弟子達に言いました。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と。ところが実際はどうだったでしょうか?

45節を見ると、「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」のです。なですか?「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」とあります。他の福音書では、最初は人々はイエスさまを歓迎するのですが、後でイエスさまを殺そうとします。でもここでは終始歓迎されていたような感じがします。その理由は、彼らはイエスさまのなさった奇跡を見たからです。人々は、見て、感心して、それでイエスさまを歓迎したのです。

私たちの社会も、結果を見せれば多くの人々は感心し、受け入れてくれますし、注目もされます。実際に結果を出すことは重要なことで。だから、結果を出すように教育されます。

でも、これが行き過ぎると人間が歪んできてしまうのです。その歪みが特に愛情、愛という所に現れてくるのです。何か良いことをしたから愛される。親に気に入られることをしたから自分の存在が認められる。そうなってしまうのです。

だから最近は精神的な病を負った方が多い。それは本来無条件で与えられるはずであった愛情を、自分の実績と引き換えに得ようとして育ったことが原因の一つとしてあるのです。

イエスさまは故郷で歓迎されました。これは素晴らしいことでしょう。でも、本当にイエスさまを主として、救い主として歓迎していたのでしょうか?違いますね。奇跡を行える人、として歓迎されていたのです。

私たちはどのようにしてイエスさまを心にお迎えしますか?私たちのために常に最善をなして下さるお方、だからイエスさまを歓迎しますか?それとも、私たちの願いを聞いて下さる、だから歓迎しますか?

私たちを無条件で愛して下さり、私たちを子として下さるお方です。何か条件をつけなくても、このお方を受け入れ、愛の関係を結んで行けるようでありたいと願います。ただただ主を歓迎して下さい。そこに本当の喜びや平安が生まれて来ます。

 

A しるしや不思議を求める人々(v.48)

イエスさまがガリラヤのカナに行かれた時、一人の人がイエスさまのもとにやって来ます。彼は王の役人と言われております。イエスさまに会うためにカファルナウムからやってきたそうです。カファルナウムからカナまで、距離にすると約33kmほどと言われております。今のように車がない時代。その距離を移動するのは簡単なことではないですよね。

この役人はなんのためにやってきたのでしょうか?47節を見ると、息子の病を癒して欲しいという願いを言いに来ております。別にイエスさまを取り調べに来たのでも、王からの伝言を伝えに来たのでもない。息子を治して欲しい、という願いを言うために33kmの道のりを歩いてやってきたのです。

福音書にはこのような話がしばしば見られるわけですが、これは決して簡単な話ではないと思うのです。王の役人ですから。地位のある人物です。彼が願いを言いにわざわざ旅をしてくるのです。もしここに、役人としてのプライドがあったらどうでしょうか?イエスさまはガリラヤという貧しい村の大工です。役人という地位に比べたらとても低い地位になります。普段なら声もかけない、視野にも入らない人物、地位です。その大工に願いを言うために旅をしてきた。それは、「この方なら癒すことが出来る」という信仰がなければ出来ることではないのです。

この役人が来た時、周りに多くの人が集まって来たことでしょう。その人たちに対して主は言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と。実績や結果をもとに信じることに、主は悲しみを覚えたのではないでしょうか。

それから、イエスさまは役人に声をかけました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。

私たち人間が考える「神」というイメージは、自分たち人間のために何かをしてくれる存在としてしまいます。「神がいるならこんなことにはならないはずだ」とか、「神がそんな酷いことをするはずがない」だとか、神さまがなさることを人間の思考や感情の範囲にとどめてしまうのです。

そんな私たちのために神さまは何をして下さったのでしょうか?「そこまで言うならば...」と、主はまず、ご自身の体を十字架につけ、私たちの命を贖ってくださったのです。

私たちが求める前に、イエスさまは神の位を捨てて人間になり、十字架の死に至るまで神と人に仕えるという不思議を行い、そして十字架の贖いを完成させるために、死からよみがえる、復活というしるしを見せて下さったのです。

私たちのために業をなして下さったイエスさまです。この主が今日私たちに求めているものは何でしょうか?

信仰です。役人のように、プライドを捨てて、主の前にひざまつき、主の全能の御手全てを委ねる信仰です。癒しや奇跡という御業を見なくても、主を信頼する。主の前の謙遜とはそのような姿です。

この謙遜を持って、主に信頼する者でありましょう。

 

B 言葉を信じて帰る人(v.50)

主を信頼すると、主の言葉を実行する者へと変えられます。

役人は「帰りなさい。あなたの息子は生きる」といわれました。彼は最初、イエスさまに「カファルナウムに来て下さい」とお願いしていたのです。でも、しるしや奇跡を見てからではなく、まずイエスさまを信頼し、信仰を持ったのです。ですから、主から言葉を頂いた時に、「わかりました」と、その言葉を前提に行動を起こしたのです。

その結果はどうだったでしょうか?イエスさまがその言葉をかけて下さった時に、30km離れた所で、その通りの奇跡がなされていたのです。

先週、デボーション・セミナーを開きまして、御言葉を実践する、ということを学びました。聞いた御言葉を実際に行う、ということです。これをセミナーで特別に学んだわけですが、実はこのことは信仰を持つ最初の段階ですでに習っていることでもあると思うのです。なぜなら、「信じる」とは実行が伴うからです。聞いても信じないなら、当然実行することなんて考えられないでしょう。

主の御言葉は私の足の灯火です。だから、御言葉によって私たちの歩む道を照らしていただくのです。歩んだ後を見て、「あぁ、そう言えば御言葉にこんなことがあったな」と後で思い出して状況に御言葉をはめこむのはなく、私たちの先を御言葉で照らし、「御言葉でこう言われたからこうする」という前向きな姿勢が重要なのです。

これが御言葉を信じる者の姿です。そして御言葉を信じて実行するとき、「下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた」という奇跡が実際に起こるのです。

私たちのために命さえも投げ出して下さるお方です。このお方が約束を空しくすることはありません。このお方の言葉を信じて、御言葉に従う日々を送りましょう。