喬木教会礼拝説教
2003年6月8日(日)

ベトザタの池

<ヨハネ 5章1〜9節>

1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。3(†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。)5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

@     習慣から抜け出そう(5節)

イエスさまの前に横たわっている人がいました。彼は38年間も寝たきりだったようです。「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」という人の中でも、特にこの人だけに目を向けられたのは、この人が特別に症状が悪かったからではないでしょうか。

38年間も寝たきりになると、どうなるのでしょうか?友人はたくさん出来るのでしょうか?性格は明るく朗らかになるでしょうか?日々楽しい思いを出来たでしょうか?趣味はあったでしょうか?

ずっと寝たきり。彼の唯一の希望は池の水が動くこと。池の水が動いた時に一番にその中に入れば病が癒されるという迷信が唯一の希望だったのです。でも、その時に水に入る術がない。希望があっても行うことが出来ないのです。この状況が、どれほど彼の性格を蝕んでいたことでしょうか。

イエスさまはそのような男性の所に、自ら進んで行き、声をかけたのです。希望がない。助けてくれる人もいない。誰も自分を理解してくれない。そんな思いを持つ人の所に、イエスさまは来てくださるのです。

これは、まさに私たちのことを現していないでしょうか?

パウロは、「わたしは、自分のしていることがわかりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです(ローマ7:15)と告白しました。

私たちは自分のうちを見る時に、満たされていない心の部分を発見します。その部分を満たそうとして、色々なことを試みます。そして、やがてその行いでは自分が満たされないことには気づきます。時に、その行いが自分を破滅に向かわしていることにも気づきます。でも、やめることができないのです。

「こんなことじゃ駄目だ」とわかっていても、抜け出すことの出来ない悪習慣。私たちはそのようなものを持っているものです。

信仰を持つものにとっては、「祈り」や、「聖書を学ぶ」こと等に対して、「するべきだ」という思いがあっても、つい別のことに時間を費やしてしまい、出来ない、ということかも知れません。

この、自分が望むことをせず、かえって憎んでいることを行ってしまうことを、聖書は「罪」と呼んでいるのです。

38年間、自分の思い通りに生きることの出来なかったこの男性のもとに、イエスさまが来て下さったように、生まれてから数十年と、罪の中に苦しみ、もがいている私たちの所にイエスさまは来て下さったのです。

何のためにでしょうか?その習慣から抜け出す手助けをするためにです。

 

A     良くなりたいという希望を持つこと(5節)

イエスさまは、38年間寝たきりで、良くなることを切望していた男性に向かって、「良くなりたいか」と聞きました。イエスさまであれば、当然その答えはわかっていたでしょう。でも、あえて男性に尋ねたのです。

この男性は38年間も寝たきりだったのです。今更元気に働けるようになってどうなるのでしょうか?これから職を探し、住む所を探し、社会的な責任も負っていくのは結構しんどいことだと思います。良くなりたい。でも、今の状態でも生きてきたし、楽できると言えば楽が出来る状態でもあるのです。

私たちも同じでしょう。「良くなりたい」という希望は持つ。でも、じゃぁ良くなるために努力をするか、というとその努力はあまりしたくないのです。また、良くなった時に新しい責任を負い、自分が忙しくなる、大変になる、とわかると「良くなる」ということに対してしり込みしてしまいます。

例えば、「神さまからたくさんの恵みを頂きたいですか?」と質問されたとします。すぐに思うことは、「そりゃ欲しいさ」ということです。「では、本当に頂きたいのですね?」と聞かれると考えてしまいます。「確かに恵みはたくさん欲しいけど、考えてみたら、恵みをたくさん受けた人は教会でたくさん奉仕しているなぁ。自分の生活であそこまで奉仕する時間は無いし、感謝だからと言って献金するほど余裕も無い。今まででもそれなりにやって来れたのだし、今更これ以上の恵みを頂くと、その後が大変そうだぞ...」となってしまうのです。

実はこの考えかは罪に縛られた考え方なのです。確かに、神さまから恵みを受けたら、それに応える必要があります。そして応えている状況を「今の自分」から考えたら、ちょっときつそうに見えるかも知れません。でも、罪から解放されて、その「きつそうに見える状況」の向こう側にあるものは何でしょうか?

横浜には日本で一番高いビルがありますね。遠くから見ると、その場所も、ビルの全景もよくわかります。非常に立派なものです。ところが、横浜に行き、駅から歩いて、あちらこちら行ってそのビルに行こうとすると、あの高く、悠々と聳え立つビルが見えないのです。あれだけでかいから、見失わない、と思っていても見失うのです。今まで大きくない、小さい建物と思っていたビルが自分の前に立ちふさがり、その向こうにもっと大きなビルがあるのにそれを見えなくしてしまうのです。

人は非常に小さな目から、大きな世界を見ようとするのです。ですから、どんなに大きなものを見ようとしても、目の前に小さな「物」を置かれるだけで、その後ろにある大きなものは見えなくなってしまいます。

小さな罪に縛られていることで、その後ろにある大きな恵みの世界、喜びと希望に満ち溢れた世界が見えなくなってしまうのです。

イエスさまは、ご自身が十字架につくことで、私たちを罪から解放してくれました。でも、それはただボーっとして突っ立っているだけでその恵みに与れる、という類のものではありません。イエスさまは言いました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい(マタイ16:24)。

私たちにとって希望を持つということは、イエスさまと一緒に十字架を背負い、イエスさまと一緒に歩く、ということなのです。だから、イエスさまの側からは、苦しむ私たちのもとに来て下さり、側に立ち、私たちの苦しみを背負うということをして下さっております。

今度は私たちがイエスさまの十字架を背負い、自分も主の苦しみに預かるという恵みを頂くのであります。この相互関係が出来上がる時に、私たちは驚くほどの恵みを神さまから頂き、希望に満ち溢れる信仰生活が始まるのです。

 

B     主の命令には従いなさい(8節)

イエスさまは38年間寝たきりだった男性に何と言われたのでしょうか?

起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。38年間寝たきりです。その男性に「起きて、床を担いで、歩け」と命じられたのです。普通ならちょっとは慰める言葉をかけたり、励ましたりするものです。ところが主は、非常識な命令を下したのです。

では、その非常識な命令を受けた男はどうしたでしょう?最初は思ったかも知れませんね。「この人は何なんだ。施しもくれない。池に入いれるように手伝ってくれるでもない。食べ物をくれるわけでもない。いきなり来て、床を担げだと?そんなことが出来てりゃここにはいないんだよ」とか。

でも、彼は言われた通り、その言葉を実行したのです!!その結果どうなったのでしょう?「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」のです!!

神さまの命令というのは、このような性格を帯びているようですね。

イエスさまが始めてペトロと会った時もそうでした。プロの漁師が一晩中漁をして魚がとれなかった。そこにイエスさまと人々が集まって来て、イエスさまに舟を出す。話が終わると、網を下ろせとイエスさまから言われる。「一晩中漁をして取れなかったんですよ!?それに、この時間じゃ普通は獲れないもんですよ。素人があまり口出さない方がいいんじゃないですか?でも、ま、先生のお言葉ですから、降ろしてみましょう」。そして網をかけると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうだったのです。

最近は科学の進歩のお陰で、聖書に記されていることが科学的に事実であることが証明されてきているわけですが、それでも聖書の世界を神話と同じように考え、信仰を根拠のないことを信じている、と考える人が多くいます。そのような風潮が蔓延してもいます。

そのせいか、クリスチャンであっても神さまの御業に対しては懐疑的だったりしますね。だから、自分の経験や知識によって神さまの働きを制限してしまい、神さまの無限の力を発揮させないような環境を作ってしまうのです。神さまを人間の知識の中に閉じ込める、ということです。

そうなると、聖書から導かれた言葉や、神さまの命令には当然従うことが出来なくなります。示されたことでも、まず自分の経験や知識、常識に照らし合わせて、従う価値があるなかないかを自分の頭で判断するのです。で、疑いながら、最終的にようやく、命令に従ったか従わなかったか、かろうじて従ったかなぁ、という程度の行動をします。そして「神さまの御業はこんなものだ」と思い、満足する。

これではもったいないですよね。神さまは本当に私たちを祝福したくて仕方がないのです。私たちをこの地上にあっても地の塩、世の光として、神さまの栄光を現す器として私たちを用いたいのです。

では、私たちが用いられるためにはどうすれば良いのでしょうか?たとえ38年間寝たきりであっても、主が「立って、床を担いで、歩け」と言われた、「わかりました」と言って実行することです。結果、本当にこの男性は癒されて、言われた通りのことが出来たのですから。

神さまは私たちのことを本当に愛しておられます。だから、私たちのことはよくわかっておられます。その私たちに出来ないことを、神さまが命令することはまずありません。私たちのために独り子の命さえも投げ出すお方です。出来そうもない、と思えることを命令されるならば、本当に大きな奇跡を神さまが用意して下さっている、ということですよ。

この神さまを信頼し、イエスさまと共に歩んで参りましょう。