喬木教会礼拝説教
2003年6月15日(日)

休まれない神さま

<ヨハネ 5章9b18節>

9 その日は安息日であった。10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

 

@     主の御声に聞き従うことこそ律法を行うこと(11節)

ベトザタの池で癒された男は、主から言われた通り、床を担いで歩いていました。それを見たのはユダヤ人たちです。そして、安息日に床を担いで歩きまわってはいけない、とたしなめたのです。

38年間病に苦しんでいた男性が、床を持ち上げて歩いているのです。恐ろしいほど凄い奇跡が行われているのです。だけど人の見る所はその奇跡ではないようです。ユダヤ人たちが見た所は「安息日の律法に生きているかどうか」だったのです。

そしてさらに、ユダヤ人らの非難がましい目で睨まれた男は、「でも38年間寝たきりだったのに、癒されたんですよ!!素晴らしいでしょ?ハレルヤ!!」と言う事が出来なくなっております。男は彼らの目を恐れ、「スミマセン!!でも、私が悪いのではなく、私を癒したお方がこうしろと言われたのです」と責任転嫁を始めております。

当時は病や不幸は、罪を犯した結果だと信じられてきました。ですから、この男性は、自分の罪は赦された!!そして癒された!!38年間、自分を縛っていた床から解放された!!とその喜びは非常に大きかったことでしょう。この喜びの内に、イエスさまが言われたことを実行していたのです。

でも、解放より律法で縛ることの好きなユダヤ人たちはそのことを許しません。「何てことをしているのだ!?」とまるで世の終りが来たかのような剣幕で怒り狂うのです。

もともと聖書を見る時に、「安息日に床を担いで歩いてはいけない」なんて書いてありません。安息日を覚えて、これを聖としなさい、と言われているのです。でも、その安息日を聖としないで、普段通りに働く者や商売する者が耐えなかったので、後の預言者たちが「安息日に〜をしてはならない」と言いました。それらの言葉から、「では荷物を運んで良いのか?」となり、「荷物なら何`まで良いのか?」とか、「どれくらいの距離まで運んで良いのか?」とか、「そもそも荷物とは何を指すのか」などと事細かに律法を増やしていったのです。ですから、最初は十戒と言われるように10の戒めだったのが、イエスさまの時代には何千という規則に縛られる律法になっていたのです。

そして、この規則に縛られるとどうなるのでしょう?目の前に、38年間病に苦しんでいた男性が癒され、起き上がり、床を担いで歩けるほどになっている、という奇跡を目の前にしても驚きもせず、それよりも「安息日に床を担いで歩くなんて!!」と律法を破っていることにしか目が留まりません。

パウロが言うように、文字は人を殺します(2コリント3:6)。私たちの人格が殺されます。そしてマニュアルがなければ生きていけないような人間になります。そうなると、マニュアルを破る存在が脅威になってくるのです。そしてその脅威を排除しようと動き出すのです。

イエスさまは私たちに新しい契約に仕える資格、霊に仕える資格を与えて下さいました。霊は生かす(同)のです。

当時の律法は文字通りの律法だったでしょう。でも、今の時代にも私たちを縛る律法があるのです。その律法は習慣や常識、伝統や形式、マニュアルなどという言葉で表されるでしょう。もし、私たちの内に力を感じられず、喜びが見出せない時、自分を縛っているものを祈りの内に探って頂きたいと思います。

そしてたとえ安息日であろうとも、イエスさまの言葉に聴き従えるものでありましょう。ここに本当の自由、私たちの生きる道があるからです。

 

A     罪を犯してはいけない(14節)

イエスさまが再び癒した男性と会った時、イエスさまは彼に言いました。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と。

罪を犯すと、もっと悪いことが起こるとはどのようなことでしょうか?イエスさまは彼がこれからイエスさまをユダヤ人たちに密告することを感じて、前以て脅しておいたのでしょうか?おそらくそんなことではないでしょう。

病にかかる、ということが罪の結果、と思われていた時代です。病から解放されたこの男性は、自分の罪は赦された、と思っていたのではないでしょうか。もう自分は大丈夫。自分には罪がない。そこで彼の生活が放縦の方向へ向かっていたのかも知れません。38年間寝たきりでしたので、いきなり社会の責任を負って、真面目に生きていく、ということは厳しいでしょうからね。

せっかく解放されても、その自由を自分の欲のために用いようとすると、私達は以前と同じか、いやそれ以上に悪い状態になってしまうのです。

イエスさまはたとえ話の中で、悪霊が一度その体から出て言っても、荒野をさまよい、しばらくすると帰って来る。でも帰って見ると家が整理されているので、他のもっと悪い霊を連れて帰って来る。そうしたらその人の状態は以前よりも悪くなる、と言われました。(ルカ11:24〜26)

私たちがせっかく罪から解放されて、清い者とされたのならば、今度は常に清い霊で満たし続けていなければならないのです。そうでないと簡単に以前より悪い状態になるのです。だから「罪を犯してはいけない」のです。

喬木教会では聞くことがありませんが、よく「ありのままで救われたのだから、このままで良いのだ」と言って、十字架の罪の赦しに甘え、罪の中に留まる方もあるのです。ローマ6章1節では「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と言われております。

神さまの恵みがあるから、私達はもう罪の中に留まっておれないのです。そしてキリストの復活の力に与り、「新しい命に生きる」(同4節)べきなのです。

私たちが赦されるためには、神の独り子の命が犠牲として支払われているのです。この命のお陰で、その救いを信じ受け入れる者を罪に定める者はいません。本当に大きな恵みです。そしてこの恵みを受けているからこそ、罪の中に留まることがないように、私達は意識して、罪を犯さず、神さまの導きに従順に従っていくものでありましょう。

 

B     主は罪を負って下さる(17節)

イエスさまの導きに従う時、この世の人々から反発を受けることがしばしばあります。今回癒された男性も、イエスさまの言葉に従ったばっかりに、ユダヤ人に目をつけられます。これは意外と恐ろしいことです。「もし、安息日に、公的場所から自分の家へ故意に者を運ぶ者があれば、彼は罰せられて、死ぬまで石を投げられる」という律法があったからです。

男はイエスさまの言葉に従ったばっかりに、今死刑に処せられるかも知れない危険の中に足を踏み入れたのです。だから彼は必死でその危険から逃れようとして、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と言い、「自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた」のです。

癒しておいてもらいながら、この男は癒してくれたイエスさまをユダヤ人に売って、自分の罪をなくそうとしたのです。何て恩知らずだろう、と思わないでしょうか?

でも、罪を被せられたイエスさまはどうだったでしょうか?「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とユダヤ人に答え、この男を責めるようなことは一切おっしゃいませんでした。この男に最高のプレゼントを贈ったのに、男からは後ろ足で砂をかけられたような状態です。普通の人なら「何て恩知らずな奴だ!!」と腹を立てるのですが、イエスさまは全く意に介していません。

なぜなら、イエスさまはまさにこのために地上に来られたからです。人々の罪を背負う小羊として、この地上に来られたのです。

旧約聖書の時代から、私達は小羊によって贖われて生きる者とされていたのです。自分の罪を小羊の乗せ、その小羊を屠ることで罪の赦しを得ていたのです。だから、イエスさまは人々の罪を背負い、その罪のゆえに十字架に向かっていたのです。それで男が罪をなすりつけたことに対して何も言いません。当然だからです。

それどころか、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」というのです。

安息日、人々は体を休めることに一生懸命でした。体を休めるためには人に対する施しも休むほどでした。でもそれで本当に休みになるのかというとならないのです。なぜなら、この世を造り、私たちを造られたお方がそうなさらないからです。

神さまは天地万物を6日で造られ、7日目に休まれました。これは創造の御業を休まれたのであって、愛の業、施しや慈善などを休んだわけではないのです。だから箴言にも書かれています。「施すべき相手に善行を拒むな/あなたの手にその力があるなら」(3:27)と。

神さまはこの世を創造されてから、一時も休むことなく私たちを守り、導いて下さっております。詩編の著者は「見よ、イスラエルを見守る方は まどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方。あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」(121:4,5)と告白しています。

この神さまが休まれていないので、イエスさまも働くのです。その働きとは人々を助ける働きです。罪からの解放を宣言し、自らの体を十字架に付ける行為です。これが神の子のとるべき行動なのです。

であるならば、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)といわれるように、御子を信じる私たちも当然、安息日だからと言って肉体的な休息を求めるだけではなく、この時こそ霊的な恵みをなお求めて働くべきではないでしょうか。

主が罪を負って下さったことを心から感謝し、その恵みを受ける私たちは、主の後に従って歩むものでありましょう。