喬木教会礼拝説教
2003年6月29日(日)

御子の権威

<ヨハネ 5章1930節>

◆御子の権威

19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

 

前回のところで、ユダヤ人たちはイエスさまに安息日を守らないことに腹を立てておりました。そのユダヤ人に対してイエスさまはなおご自身の持っている力、使命について説明されたのです。

 

@     親に似た子になりましょう!!(v.19)

誰でもそうだと思いますが、私達は自分の持っている基準、尺度、力で行動します。イエスさまも、ご自身が持っておられる基準に従って行動を行っておりました。そしてその基準がどこから来ているのかというと、「父」でありました。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」のです。

神さまであるイエスさまが、父である神さまと同じことをするそうです。子は父のすることを見なければ何も出来ないからです。

不思議ですが、私たち人間は親に似てしまうのですね。何ででしょう?親が尊敬できる、素晴らしい人なら良いですが、そうでない親であっても、子は親に似てしまうのです。その理由は、この世を造り、人間を創造された神さまがそうである、というのだから、造られた私たちも当然その性質を受け継いでいるからなのです。

「アダルト・チルドレン」という言葉があります。子どもの時分に子どもらしさを十分に持つことが出来ずに、大人になってから子どもっぽくなってしまうという症状です。現代の若い人々は殆どがアダルト・チルドレンだと言っても良いくらい、これが当たり前になってきました。

アダルト・チルドレンはアルコール依存症の子どもに多く見られていました。アルコールがなければ生きていけない親を見て、「時分は親のようにはなりたくない」と言いながら、いつしかアルコールに依存するようになっている。そして時分が親と同じことをしていることに腹を立てながら、ますますアルコール依存症になっていく。それがアダルト・チルドレンでした。現在はアルコールに限らず、何かに依存している人々の子どももそう呼んでおりますが...

人間にはもともと見るものに似てくるという性質があります。だから、夫婦は似てきます。ペットと似てきます。ある時、教会の若い人に「最近仕事辞めてちょっと太った?」とか失礼なことを聞いたら、「見るものに似てしまいますからね」とかいう返事が返ってきました。その意味は、「牧師を見ているんですよぉ」ということです。

聖書の登場人物、ヨセフもダビデも、ただ神さまから愛されただけではなくて、人々からも愛されていました。見た目も美しかったことを聖書は記しております。なぜでしょうか?彼らは神さまを見ていたからです。本当に素晴らしい、最高のお方を見つめていたので、その顔も、体つきも美しくされていったのです。

私達は親を選べません。でも、見つめる先は選べるのです。肉の親は肉の親。今私たちには霊の親が与えられているのです。霊の親を見つめて信仰の歩みを続けたいと思います。

聖書は、私たちがやがてイエスさまのような姿に変えられると約束してくれています。私たちがイエスさまを見続けていくならば、私達はこの地上にあって、イエスさまの香りを放つ者へと造り変えられていくのです。やがて消え行くものではなく、永遠に変わらず輝き続けているイエスさまを心にお迎えして、イエスさまの父なる神さまを私たちの親として、私たちの将来を明るくしましょう。

 

A     御子を信じる時、死から命へ移ったことを感謝しよう!!(v.24)

24節は非常に重要な箇所です。この言葉を私達は決して忘れてはいけないですね。

日本人に染み付いている思想があります。行いを絶対的とする思想です。「働かざる者食うべからず」とか言われます。自分の行為があって初めて生きる資格を得る、というのです。そのような思想があるので、脳死の状態になると、もう体が動かないから死んだのと同じ、というように見なすのです。

そしてその思想が、時にクリスチャンにも染み込んでしまっているのですね。私たちが救われるのは、また救われたのは、何か立派な行いをしたからでしょうか?違いますね。パウロは繰り返し繰り返し、私たちが救われたのは行いによるのではありません、と述べています。

ではどのようにして救われるのですか?

信じるだけです。私たちが、イエスさまの十字架の死は、自分の罪を背負って死んで下さったのだ。私はイエスさまを信じることで救われるのだ、ということを信じて受け入れるだけで救われるのです。本当に信じるだけ。この時に私たちの魂は死から命へと移されているのです。これが聖書の約束です。だからまさに恵みだけなんです。

ところが、真面目な人は、体に染み込んだ思想のせいで、「素晴らしいものを受け取るにはそれなりのことをしなければならない」と考えます。また律儀な人は、「良いものを頂いたら、良いものを御返ししなければならない」と考えます。また責任感の強い人は、「自分は救ってもらわなければならないほど悪いことをした覚えはない」と考えます。

私は意外と気が弱いのです。埼玉に住んでいること、アパートによく新聞の勧誘が来ました。3社くらいでしょうか?とにかく勧誘されると断りきれずに全て受けてしまうのです。もちろん重ねて取るということはなかったですが、3ヶ月更新でしたので、「では3ヵ月後はうちの新聞を」と言われると、「そうですかぁ...わかりました」と言ってしまうのです。お陰で洗濯の洗剤には不自由しませんでしたが...

そんなクセが残っているので、先日はコピー機の勧誘にも乗せられてしまいそうでした。でもこれは私個人のものではないので、「役員会がありますから」と言って役員の皆さんに相談しました。そうしたら、「これは全然安くない!!」と言われ真相を見極めることが出来たのです。そうなると、「出来ません」とはっきり断れるんですね。

その前はシロアリ対策のセールス、その前は会堂の屋根改修のセールス、来るもの来るもの全部良い話に見えてしまって、本当に困ってしまいます。

私たちの世の中は、「これは良いですよ。今ならお買い得ですよ。今買わないと高いですよ。今やっておかないと後で大変ですよ」とか言われて、実はそうではないものが多いのです。だから、「信じるだけで救われるんですよ」なんて言われても、なかなか信用出来ないのです。「え?それだけでいいの?そんなこと言って、『信じます』と言ったら後で大変なことを要求されたりするんじゃない?」とか考えてしまうんですよね。

またある知人から教えてもらったのですが、その人が海外に旅行に行った時、香水の工場を見学したそうです。一つラインで香水を作っているのを見たそうです。その香水は流れて言って、容器にいれられました。ここまでは全部一緒だったそうです。でも、その容器に張られるラベルは何種類かあったそうです。本当かどうかわかりませんが、聞いてみると、そのラベルによって値段が全然違うそうです。

それなのに、私達は安い物と高い物が並んでいると、「安い方を買いたい」と思いつつ、「でも高い方が信頼できる」と思ってしまうのです。中身が同じであってもです。

イエスさまは信じるたけで、私たちに神の子となる資格を下さいました。今また、信じる者は死から命に移され、裁かれることがない、と約束して下さいました。

「信じるだけ」。それは安すぎるように感じるかも知れません。あまりにも上手い話なので、裏があるような気がしてしまうかも知れません。そう思わせるのはまさに、サタンの手口なのです。こうやって私たちが神さまの子とならないように一生懸命働いているのです!!

聖書は真実の書ですよ。「信じるだけ」。それで永遠の命を約束して下さっているのだから、いただけるのです!!信じて、この命を頂きましょう!!また信じている方は、「行いによる義」を求めないようにしましょう!!

 

B     復活の時、報いがあること知ろう (v.29)

散々「信じるだけ」を強調しておきながら、今度はちょっと反対のことを話さなければなりません。

28,29節を見ると、「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」とあります。

ここに「善を行った者」とあるのですね。先ほどまで「行いじゃない、信じるだけで救われる」と言って来ました。でも、ここでは「行い」が問題にされているのです。ちょっと矛盾を感じるかも知れませんよね。そこで、今度は「信じた者の行い」について見てみたいと思うのです。

実は、イエスさまが復活され、天に昇られ、しばらくしてからも、この行いについては度々議論されていたようなのです。

パウロという人物は、徹底して行いによって救いを得ようとしておりました。だから誰がみても立派な生活をしていたのです。でも、彼は救いを見出せませんでした。行いを追い求めれば追い求めるほど、自分の不十分さが見えて来るからです。その彼がイエスさまに出会い、「信じる」ことで救われることを知りました。

それで彼は伝道者になり、「信じるだけで救われる」と説いて伝道したのです。その結果、多くの人が救われました。でも、救われた人々の中には、「信じるだけで赦されているから」と言って、相変わらず罪の生活を続け、たくさん赦されるようにと、多くの罪をあえて犯そうとするのです。その人々に対してパウロは何と言ったでしょう?「それは違う!!」と叫びました。

私達はイエスさまの復活の命に与るバプテスマを受けた。それは罪の体が死ぬというイエスさまの十字架の死に与ることなのです。罪に対して死んだ私たちがどうしてなお罪の中に留まれるのか!?というのです。新しく生まれ変わった者の歩みがどうあるべきなのか、パウロは示したのです。

その歩みの模範はイエスさまでした。イエスさまは「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」と言いました。

罪から救われた者の歩みは、私たちを生かして下さっているお方の御心を知り、それを行うことなのです。行うことなのです。

では、その「行い」ですが、先ほどから言っていた「行い」とどう違うのでしょうか?

それは性質の違いです。先ほどから言う「行いではなく、信じることだ」という時の「行い」は、自分の欲求を満足させる目的の中から生まれてきた「行い」です。心の底からの平安を持ちたい。喜びを得たい。満足したい。「そのために」生まれる行いです。だから自分の欲求を満たすことが目的になっているのです。

そうなると、イエスさまが言われた「善を行った者」の「善」が成立するのでしょうか?人間の欲求には「善」がないことを聖書ははっきりと示していますね。だから、自分の欲を満足させることでは善が生まれないのです。

では善は何処にあるのでしょうか?イエスさまは、ある青年から「善い先生」と呼ばれた時に「なぜ私を善いと呼ぶ?神さま以外に善いものは誰もいない」(マルコ10:18)と言われました。

私たちが信じることによって永遠の命を与えて下さる神さまこそが「善い」存在なのです。だから、このお方の望むところを満たそうとすることが、私たちにとっての「善を行い」になるのです。

だから、目的が違います。「自分の欲」を満たすか、「神の望み」を満たすかです。

続いて、「動機」が違います。自分の欲を満たそうとする時、その行為の後ろ、動機には立派に保ちたい自尊心があるかも知れません。軽蔑を恐れるからかも知れません。嫉妬があるかも知れません。独善的な思いかも知れません。うぬぼれかもしれないし、無知だからかも知れません。何にせよ、純粋な動機が生まれにくいのです。

でも、神の望みを満たすという目的は、「私たちを愛し、私たちが平安を持てるようにと独り子さえ犠牲にして下さった」という神さまに対する感謝と愛が動機になるのです。そこには強制的な、束縛するような、そんな力は働きません。だから、愛の表れとして、喜びから行為が生まれるのです。

完全な罪の赦しが欲しければ悔改めをしなければなりません。恵みをたくさん頂きたければ、神さまの働きに携わらなければなりません。祝福がほしければ、神さまに従わなければなりません。

全部行動が必要なのです。でも、これらの行動は、けっして嫌々するものではなくなるのです。愛する者には常に最善なことをしてあげたい、この思いを持って行えるのです。

やがてイエスさまが来られます。復活の主が天使を引き連れて地上に帰ってこられることを、イエスさまが約束して下さったからです。そしてその時には、「裁きの座」があるのです。

信じている者には裁きはありません。良い行いをしたものは復活の恵みに与ります。そのために、イエスさまの父を私たちの父として、このお方を見つめて歩みましょう。