喬木教会礼拝説教
2003年7月6日(日)

価値ある誉れ

<ヨハネ 5章3147節>

◆イエスについての証し

31 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。32 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。33 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。34 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

41 わたしは、人からの誉れは受けない。42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。43 わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。44 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。45 わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。46 あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。47 しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

 

@     聖書を正しく読もう(35)

皆さん聖書を楽しく読んでいますか?聖書を開く時にワクワクドキドキしていますか?

私は最近、「趣味が読書」と言っても良いかなぁと思えるくらいに、本を読んでおりますが、学生時代は殆ど活字を読んだことがありませんでした。神学生時代でさえ、愛読書は週間の漫画でした。その私が読書を好きになったのです。その理由は、聖書でしょう。

聖書を読み始めてから、活字嫌いが徐々に、活字が必要と思うようになって来て、それから活字を楽しむようになりました。

活字を楽しめるようになるまで、本当に大変でした。それまでは、字がたくさん書いてある本を読むと理解出来なかったのです。それが聖書だけは理解できる、なんてことにはならないのですよ。だから、聖書に記されていることを、ちゃんと理解したい、という思いから、ゆっくり、情景を思い浮かべながら読んだのです。そうしたらイエスさまが本当に生きて、私の前にいるような感覚に陥り(?)ました。もう聖書を読むのが楽しくて仕方がないのです。時間を見つけては聖書を開くようになりました。

「クリスチャンは、聖書を読むのが当たり前」という概念がありますけど、どうでしょうか。当然ですよね。でも、中には聖書を読めない、という方もいらっしゃいます。なぜでしょう?時間がない?抵抗がある?疲れているから?中には「聖書の内容が理解出来ない」ということを理由にしている方もいるかも知れませんね。

でもそうすると不思議ですよね。聖書という書物に記された、神さまの御言葉によって、それらの問題から解放されて、聖書に記された約束によってクリスチャンになったはずなのに。

昔、人々は神さまから与えられた書物を律法の書として理解していました。だから聖書を読んでも楽しくなかったでしょう。そのような聖書は、読むたびに気分を暗くさせ、自分や人を裁く思いで満たされていたことでしょう。

そんな時に、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物が登場しました。彼は「35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった」のです。私達はどのような所で本を読みますか?真っ暗闇の中で読みますか?読めませんね。光が必要なのです。ヨハネは、人々が本当の聖書を理解出来るように与えられた光であったのです。

それで人々は、「しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」のです。ところが読み進めて行くと、どうも自分の罪を明るみに出し、都合の悪いことが言われる。そうなるともう、その光がありがたくない。光を消してしまえ、と言って彼を殺しました。でも、人々は、このヨハネこそ神から遣わされた預言者であることを知っていました。

今、そのヨハネに勝るお方が来て、聖書の言葉を実践し、証明して下さるお方が与えられているのです。

聖書を読む時に、私たちがこのお方の光を頂かないならば、私達は決して聖書を理解することは出来ないでしょう。私たちの限られた知識の中で、聖書を読もうとするならば、私達はヨハネを殺したユダヤ人たちと同じように、自分に都合の良い所のみを利用しようとするでしょう。

イエスさまが、自分で自分自身を証言し、自分が神の子だと言っているなら、律法にも言われているように、その証言は成立しません。でも、父である神が証言者として立てられ、イエスさまがご自分を神の子として、その姿を明らかにして下さっているのです。このお方の光だからこそ、私達は正しく聖書を見ることが出来るようになります。

この光の内で聖書を見るならば、神の御言葉を蓄え、実践しようとするその思いは祝福され、聖書を正しく、楽しく理解することができるでしょう。聖書は神の光の中で読むものなのです。

 

A     聖書の目的を知ろう(39)

本を読むようになってわかったことですが(もっと早く気付くべきだったのですが)、本を読む時に、その本の目的、主張を知っていると、読んだ時に理解しやすいのです。

では、聖書の書かれた目的とはなんでしょうか。この目的を知っているならば、私達は聖書を、自分の必要に応じて、神さまの恵みにより理解することが出来るようになるのです。ですから、ヨハネの福音書は、その目的まで明確に述べてくれています。20章31節を見て下さい。

これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである

はっきり目的が記されています。だから、このことを念頭に聖書を読めば、私達は聖書を理解出来ます。そしてさらに、イエスさまご自身が語ってくれました。「39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」。

そのイエスさまの目的は、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3:16)のです。

聖書の目的は、私たちに命を与え、私たちが生きる者となることなのです。では、私達は今生きていない、ということなのでしょうか?肉体的には生きていますよね。心臓が動いているのですから。でも霊的な部分はどうでしょうか?

肉体につきまとう「死」という呪いが、私たちの霊にまで影響を及ぼすのです。この呪いの下にある時、私たちの霊も死んでしまいます。聖書の目的は、この呪いを私たちから断ち切ることです。そのために、私達は聖書で証言されているイエスさまのもとに行きます。罪の体を殺すためにです。死ぬならば、「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです(ローマ6:14)。

聖書は、イエスさまのところに行く時に、イエスさまの十字架の贖いを信じ、受け入れる時に、私たちを罪から解放し、永遠の命を与えると約束して下さっているのです。

だから今私たちがするべきことは何ですか?聖書を自分の知識の中に閉じ込め、イエスさまのともに行くよりも自分の思いを優先させることですか?それとも、聖書の下に自分を置き、聖書の示す道を歩み続けることですか?聖書の下に自分を置くならば、私達は聖書に親しみましょう。読みましょう。読むことが出来る、これはとても大きな恵みですよ。読む。このことで私達はイエスさまに近づくのです。読む。この行為を通して神さまに対する愛を現すのです。読む。このことで永遠の命をしっかりと握りましょう。

 

B     聖書から与えられる誉れを受けよう(47)

イエスさまは人からの誉れは受けないと言われました。

人はつい人からの誉れを求めてしまうものです。人からの誉れは私たちに「自己満足」を成さしめます。自分に満足すると、どうなるのでしょうか?欠乏を覚えないので、十字架が必要なくなるのです。

もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる」とイエスさまが言われましたが、当時もよく偽メシア、偽預言者が現れたのです。詐欺師は、人の欲望を満たす道を示します。人の願望を果たす容易な道を示してくれるのです。だから、「ほかの人が自分の名によって」来ても、自分たちに都合が良ければ受け入れ、賞賛するのです。

モーセは、律法によって人の罪を明確にし、神のもとへと導く者でした。バプテスマのヨハネは、人々を徹底した悔改めに導きました。そしてイエスさまは、人々を十字架へと導くのです。そこには、詐欺師、偽者が示すような安易さ、楽しさはありません。自分の願望を捨てること、自分が重荷を負う事ばかりが示されるのです。だから人々はこの苦しみを避けます。

でも、これを避けて通り続けるならどうなるのか。モーセがその人々を罪に定めるよう訴える、と言うのです。ようするに、神さまからの誉れはなくなる、ということです。

聖書は私たちが神からの栄誉を受け取れるように、永遠の命に至る道を示してくれました。この道が示されている今、私達は、神さまからの誉れをいただけるように歩みたいと思います。それは、十字架の道です。苦しいかも知れません。でも、その先には何があるのでしょうか?「復活」です。キリストの死に与るならば、私たちはキリストの復活にも与ることが出来るのです。そして御国の相続者として歩めるのです。

やがて消え去る誉れ、栄光、自分の欲求はことごとく十字架につけましょう。そして神さまからいただける、最高の栄誉、永遠に消えることのない誉れ、ここに目を留めて、歩む者でありましょう。