喬木教会礼拝説教
2003年7月13日(日)

感謝の祈り         <ヨハネ 6章1〜15節>

◆ 5千人に食べ物を与える

1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 

@ 主は私たちの心を試みられる(6)

イエスさまはカペナウムからガリラヤ湖の向こう岸に移動されました。その場所は、ユリアス・ベツサイダという村のすぐ側、エル・ベティヤと呼ばれる湖畔だとも言われております。イエスさまが移動された理由には、それまで、ユダヤ人とのやり取り(論争)もありましたし、他の福音書などを見てみても、休息を求めて、群衆から離れることが目的だったのではないでしょうか。

そんなイエスさまのもとに、群集は離れることなく、ついて行きます。イエスさまは舟で湖を渡ったようですが、群衆は湖畔を歩いて主を追いかけたようです。その距離は15km程とも言われております。この時、4節を見ると、「過越祭が近づいていた」ということでもあるので、もともとイエスさまの周りにいた群集の他に、その騒ぎにつられて加わる祭りに参加しようとしていた旅人達も加わったのではないかとも言われます。ですから、その数、男だけで5千人と言われているのです。

イエスさまにとって、休もうと思って退いた場所に、これだけの人が押し寄せて来て、しかも彼らが霊的な糧に飢えている民であるのなら、放っておくことは出来ません。他の福音書では、そんな群集に教えを説いております。それからイエスさまは群集の体調を気にし始めます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか(5)。

この質問をイエスさまはフィリポに投げかけました。おそらくフィリポはこのあたりの出身だったので、その地方に通じていたからでありましょう。でも、彼は答えます。(7)「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と。

1デナリオンが当時の労働者の一日の賃金と言われております。ですから、半年分の給料をもってしても、それぞれに少ししか食べさせることは出来ないとフィリポは答えたのです。

 

私達は生活の中で、時に「何でこのような目に遭うのだろうか」と不思議に思うことがあります。それを、「神さまの試練」として捉えるわけです。誘惑というものはサタンから来ます。この誘惑は私たちを信仰から引き離そうとするものです。でも、試練は、それを乗り越えるなら、神さまはから大きな祝福をいただける、という類のものです。

イエスさまはフィリポを試みました。それは、この試みを通してイエスさまが大きな奇跡を成そうとしておられるということなのです。

この試みに対して、私達はどう答えるでしょうか?人間的な考え方、環境の捉え方をして、この世の常識に留まりますか?それとも、大いなる信仰を持って、この世の常識を超えた奇跡を当然のこととして、奇跡を期待しますか?

私達は神さまの奇跡を常識にして歩む群とさせて頂きたいと思います。主に期待することを忘れないようにしましょう。

 

A 主のもとに希望をたくす(8,9)

主に期待をする。このことを忘れないようにするためには、自分の持っているものを絶えず主に捧げていくことが必要です。

フィリポが「二百デナリオンでも足りないでしょう」と言っている時に、アンデレが口を挟みます。(9)「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と。

アンデレという人物は、兄弟のペトロをイエスさまのもとに連れてきた人物でもあります。彼は、自分ではどうにも出来ない。でも、イエスさまのもとに持っていく(連れて行く)なら、どうにかなる。という信仰を持っている人物だったようです。

アンデレが連れてきた少年の持っていた大麦のパンという物は、パンの中でも一番安いものだったそうです。そして姦淫の罪を犯した時の供え物として使用されていたパンです。そしてそのようなパンを持ってきた少年の魚でしたから、おそらく高価な魚ではなかったでしょう。ガリラヤ湖では、今では「Peter’s Fish」と呼ばれる鰯のような魚が取れるそうですが、その魚を塩漬けにしたものではなかっただろうか、といわれております。どちらも、あまり高価な、立派なものではありませんでした。

 

神さまに捧げる。というと、何か立派なものでなくてはならない、という思いがします。その通りです。立派なもの、高価なものを捧げるべきです。間違っても余り物とか、使用済みの物を捧げるようなことがないようにしたいと思います。

でも同時に、精一杯という点で、捧げ物に気後れしないように、自分の持てるものを捧げていけるようでありたいと思うのです。

昨晩もそうでしたが、祈祷会に遅れながらでも参加される方がありました。30分も遅れたら、残された時間はわずかです。普通なら「今日は仕方ない。諦めるか」となりますが、それからでも来る。参加する。祈りに加わる。これは時間と労力を捧げる立派な行為だと思います。

最近、ある方が教会に献金をして下さいました。その方が言うには、「本当に少なくて申し訳ありません」と言うのです。でも、その方の生活から見るなら、それは決して少なくはありません。さらに、その額は、自分の欲している物を買わずに我慢して溜めたお金なのです。このような捧げ物、確かにこの世の中の基準で言うなら小額かも知れませんが、神さまの前には本当に大きな意味のあるものなのです。

 

この世の基準で考えるなら、「これを捧げるには不十分だろう」と思うことはたくさんあります。少年だって、自分の安っぽいお弁当をお弟子さんに渡すのには勇気がいたでしょう。お弁当を受け取ったアンデレにしても、これをイエスさまのもとに持っていくには少々気が引けたでしょう。それでも持って行く。自分の出来る精一杯のものを捧げる。この行為を神さまは本当に喜んで受け取ってくださるのです。

私たちの持てる能力。年を取れば体力も落ちます。体のあちらこちらが痛くなります。動かなくなります。気持ちが若ければ若いほど、気落ちする方もあります。また、若い人には自分にコンプレックスを持っている方も多いです。自分は駄目だ。不十分だ。そう思っている方が意外に多いものです。

良いのです。そのままを神さまに捧げてみましょう。満足できる自分になってから、ではなくて、今のままの自分を神さまに委ねましょう!!神さまは、十分の一でも捧げるならば、天の窓を開いて溢れるばかりの恵みを与えて下さると約束して下さっているのです。もし、私たちがありのままの自分を差し引くことなく、全てをお捧げしたらどうなるのでしょう?

5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人のお腹を満たしたように、私たちの力も何十倍、何百倍、何千倍にもしていただけます。自分の全てを委ねましょう!!

 

B 主を本当の王にせよ(15)

イエスさまの奇跡によって、「人々が満腹した」のです。その人たちは、イエスさまを「この人こそ、世に来られる預言者」だと思い、そして「」にするために連れて行こうしました。それを知ったイエスさまは「ひとりでまた山に退かれた」のです。

 

なぜイエスさまは人々の前から退かれたのでしょうか?現在の教会やクリスチャンは、あの手この手でイエスさまの福音を世界中の人々に知らせたいと思い、注目され、人をたくさん集めるためにはどうすれば良いのかと試行錯誤して努力しております。

もし、人々によって王にしてもらえるなら、全ての国民にイエスさまを信じるように命令できる良い機会かも知れません。聖書を読ませ、神さま知らせるのに、素晴らしい地位です。現にイスラエルの王国の歴史は、王様が信仰を持っている時には多いに祝福されて来ているのですから。

 

でもイエスさまはそれを望みませんでした。人々は、ただ自分の望みをかなえてくれるお方として、イエスさまを歓迎したのです。そこには十字架がありません。人の欲望しかないのです。この場合、人間が神を利用しようとする、テルテル坊主と全く変わらない神、王になってしまうのです。

動物は、自然の秩序の中で生きていると言われております。肉食獣と言われる動物であっても、自分の腹が満たされている時は、どんなに美味そうな動物が目の前にいようと襲わないそうです。でも人間は違いますね。お腹がいっぱいでも、美味しそうな物を見ると、あれは明日の晩御飯に、と言って何年も先の食料まで確保しようとします。その時には、「自然環境」という言葉が頭にあっても、自分と結びつけることが出来なくなったりしてしまいます。

イエスさまは素晴らしいお方でした。その方には権威があり、力ある神、永遠の父、平和の君(イザヤ9:5)と呼ばれるお方です。このような素晴らしいお方が自分の近くにいるのなら、私達はいつまでもそのお方を自分のもとに留め、自分の都合の良いように利用したい、と考えるのです。

 

十字架を抜きにしてイエスさまは在り得ないのです。もし十字架がなかったら、この聖書はただの伝記となってしまいます。昔イスラエルの地方には素晴らしい王様がいた、で終わってしまうのです。

でも、イエスさまは目先の栄光に心奪われることなく、十字架の道を歩んで下さったので、今、イスラエルだけに限らず、世界中の王となられました。さらにその栄光は、全ての主権の上に置かれ、今の世ばかりではなく、来るべき世にも唱えられるものとされたのです(エフェソ1:21)。

このお方を本当の王として、私たちもお迎えするならば、私たちの名も、この地上で終わる世に記されるだけでなく、永遠の命の書に記され、イエスさまの栄光に与ることが出来るというのです。

イエスさまを信じるならば、神の子としての特権も与えられるので、今の世でも素晴らしい恵みに与ることが出来ます。でも、その目先の喜び以上に、やがて来る世にも目を留め、十字架の主、死んで復活された王、このイエスさまに日々従って行く者でありましょう。