喬木教会礼拝説教
2003年7月27日(日)
舟に迎え入れる <ヨハネ 6章16〜21節>
◆ 湖の上を歩く
16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。17 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
概略 大きな奇跡の後。弟子達のみで湖を渡ろうとする。それはイエスさまの命令であったのだろう。ところが、沖に出ると突風が吹き荒れ、彼らは前に進めなくなった。そこにイエスさまが湖の上を歩いて舟に近づかれ、舟にイエスさまを迎え入れた時、舟は目的地に着いた。
@ 遣わされた民となれ(17節)
旧約聖書の中に「ノアの箱舟」というものがあります。堕落した人類を、神が洪水によって一度滅ぼされたという歴史です。でもこの時、ノアとその家族、そして一対の動物たちだけは指示された通りに造った箱舟に入ることで救われました。
それから、現在の「教会」は「舟」と同じような役割をすると考えられるようになりました。
イエスさまは大きな奇跡の御業を成した後、弟子達だけで湖を渡らせました。主は祈るために山に登られたのですね。このことは、もちろんその意味の重みの違いはありますが、十字架の贖いと復活といういう大きな御業を成し、そして天に昇られた時と状況が似ているかも知れません。
主は復活し、天に昇られた後、弟子達を全世界に派遣されるのです。であるならば、我らクリスチャンは主から使命を与えられ、是世界に旅をしながら福音を伝えるという使命が与えられているのです。
クリスチャンなのに、イエスさまを信じているのに、その恵みを自分の内だけに留めようとしている方はいらっしゃいませんか?主は今も「全世界に出ていって、福音を伝えなさい」と私たちに語っておられます。
主を礼拝し、主から遣われて、今週一週間を歩みましょう。
A 逆風で主は「恐れるな」と言われます(19節)
遣われるということで考えると、普通は「一人」で行きます。弟子達は、弟子達のみで舟に乗り込み、向こう岸へ参りました。ではその時、イエスさまはどこで何をしておられたのかというと、一人退かれて山の中にでも行かれたのでしょう。そして祈っておられたのです。
では、その時、イエスさまは弟子達を見ていなかったのかというと、おそらく見ていたのでしょう。そして彼らのためにも祈られるのです。彼らのために執り成し、彼らが目的地に達することが出来るように、目には見えない形で手伝って下さっていたのです(ローマ8:26,27)。
ですから、逆風の中でいよいよどうにもならない、となったその時、イエスさまは弟子達に声をかけました。「わたしだ。恐れることはない」と。
この時初めてイエスさまは声をかけられたのでしょうか?最近、HPで面白いものを見つけました。4コマ漫画なのですが、主人公が大声で泣きながらまくし立てるように祈り続けているのです。フとした時、神さまが「わたしはお前を愛しているよ。大丈夫だよ」と言っておられるのを聴きました。それで彼は、「主をありがとうございます」と感動するのですが、同時に質問もしました。「でも主よ、なぜこの3ヶ月間沈黙しておられたのですか?」と。最後に天の世界で天使がイエスさまに言いました。「主よお疲れ様でした」。主は肩で息をしながら深呼吸しておられます。天使は言葉を続けました。「この3ヶ月間叫び続けておられましたからね」と。
主から遣わされる。「遣わされる」というと一人で、イエスさま抜きにして奮闘しなければならないような気がしてしまうのですが、実はそうじゃないのです。一人でいるようで、実は主はいつも私たちのことを見守っておられ、そして必要な知恵を与え、アドバイスを下さっているのです。でも、逆風が吹き付けると、つい自分の力で頑張り、神さまからの語りかけに耳を傾けることが出来なくなってしまうのです。
辛い時にこそ主が助けて下さっていることを覚え、主の語りかけに耳を傾けましょう。そして主が共にいて下さっていることのゆえに、力強く遣わされた者としての務めを全うしましょう。主は「恐れるな」と言っておられます。
B 迎え入れようとした時、目的地に着いています(21節)
弟子達はイエスさまの存在を認め、舟にイエスさまを迎えいれようとしました。すると間もなく舟は目的地に着いたのです。これは面白いですね。「イエスさまを迎え入れたら」ではなく、「迎え入れようとしたら」なのです。
ある人と話している時、その方がこんなことを言いました。「危機はチャンスだ」と。私たちは危機に直面すると、ある時はパニックに陥り、ある時は泣き出し、ある時は尻込みしてしまう。でも、発想の転換をすれば、それは自分自身が変えられ、伸びていくチャンスでもある、というのです。
最近日本にも進出してきましたが、ウォルマートというディスカウント・ストアーがあります。このお店の創設者は、サム・ウォルトンと言うそうです。彼は1992年に亡くなっておりますが、亡くなる時には、アメリカ全土とメキシコに1700以上の店舗を運営していたそうです。では、彼は最初から商売に長けていて、順調に店舗拡大をしてきたのかというと、そうではないのです。
第二次大戦後に彼は田舎に帰り、小さな雑貨店を開いたそうです。小さな雑貨店です。それでも彼は必死に働き、店を徐々に大きくしていきました。その後、大きな競争相手ディスカウント・ストアーが現れ、ウォルトンの雑貨店と激しく競合したそうです。ジリ貧の状態だったのでしょう。この時、彼には二つの選択肢があったと言います。一つは雑貨店に留まって、ディスカウント・ストアーの波に直撃されるか。それとも自分たちのあり方を少し変えて、自分たちもディスカウント・ストアーを開くか、だったそうです。
問題が起こった時、人は三つの方法のどれかでその問題に対処するそうです。1つ目は、問題を受け入れることを拒否する。2つ目は、問題を受け入れ、それに耐える。3つ目は、問題を受け入れ、それを改善しようとする。です。
ウォルトンは、ディスカウント・ストアーとぶつかった時、問題を解決するために、雑貨店からディスカウント・ストアーに変わり、1962年に第一号店をオープンさせました。もちろんそこに至るまで、問題を解決するために多くの研究が重ねられたのです。
非常に大きな問題、危機に直面したウォルトンでしたが、彼はそれをチャンスとして生かしたのです。その後も様々な危機に直面しますが、全てをチャンスに変え、現在は全米一の小売業者になっております。
問題に直面する。切羽詰った状態になります。だから私達は「大変だ」、「時間がない」、「余裕がない」と言って祈る時間や、聖書を読む時間、讃美する時間を削り始めます。その時、私達は問題の波にのまれて、海底に沈んでいると思った方が良いでしょう。
弟子達は「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ」とありますが、直径約7`のところ、6`ほど進んでいたのです。「イエスが湖の上を歩いて」という言葉も、実は直訳的には、湖の上というよりも「湖畔」と訳されるような語が使われているのです。
焦り、パニックに陥り、大変な思いをしている時、実は自分は大変なチャンスをつかもうとしている、そんな時なのです。真っ暗闇の中、罪に縛られ、もう動けない、と悟った人のみがイエスさまの十字架を知り、自分の弱さを知った人のみが神さまの強さを知れるのです。
今こそ恵みの時です。私達は主を迎え入れることにより、発想の転換をし、主の恵みの内を歩ませて頂きましょう!!
結論 主は私たちをこの世に遣わします。それはまるで羊を狼の群の中に放つようなものだ、とイエスさまはおっしゃいました。本当にただ放たれただけなら、羊はひとたまりもないでしょう。でも今を持ってなお生かされ、遣わされている。それは主が共にいて下さり、私たちを守り、執り成して下さっているからなのです。この主が共にいるのですから、私達は恐れることなく、遣わされた民として、この地上において与えられた使命を行い続けましょう。そしてピンチの時にこそ、チャンスとして、どこまでも鷲のように高く昇って行く者でありましょう。