喬木教会礼拝説教
2003年8月3日(日)
信じることが神の業 <ヨハネ 6章22〜33節>
◆イエスは命のパン
6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
導入 「信じる」って非常に簡単なような気がしませんか?信じることに元手は要りませんから、いくらでも何でも信じることが出来るわけです。私も小さい頃は心霊現象などを信じておりまして、本当にビクビクしていた時期がありました。でも、イエスさまが言う「信じること」はちょっと意味が違うみたいですね。どんなことでしょうか?
概略 5千人の給食の後、主は弟子達を先に送り、湖を渡りました。それに気付いた群集が再び追いかけて来て、イエスさまから話を聞きます。この話の内容の前半部分を今日は見て行きましょう。
ポイント1 満腹に惑わされるな(26節)
固定概念というものはなかなか変わらない。伝道するにしても、人々の内に概念を作り出し、それを固定させることが出来たら成功でしょう。でも、それはなかなか容易なことではないですよね。だからカルト宗教などは手っ取り早く「洗脳」を行ってしまうわけです。
でも、カルト宗教ではなくても「洗脳」という手段は、よく用いられているような気がしてしまいます。
この前発見したHPで、4コマ漫画なのですが、こんなのがありました。主人公が「プリクラ人気も落ち着いたな」。そして次は「ポケモンもそろそろだな」。それからキティちゃんが流行っていたのでしょうか「キティの次はどうするかな?」と。最後の場面は「サタン最高幹部会議−日本戦略―」という部屋の横にある「使用中」のランプが点滅しているという漫画でした。
健康食品と言えば健康食ブーム。サッカー、メジャーリーグ、私は最近携帯を変えたのですが、そこには「着うた」なるものがありまして、お店の方が「これから流行ると思いますよ」とのこと。
一般的に「宗教」というと、一般の方は「怖い」とか「洗脳されそう」とか言って避けるのですが、でも、何てことはない。一般の人々もマスコミ、流行というものに洗脳されてしまっているのです。「流行」という洗脳手段は非常に有効であることを思わされます。
何で人々は流行を追い求めるのでしょう?流行、それは流れて行ってしまうのですよ。でも、それを手にしていると、一時の満足感があるのですね。「時代の先端に行っている」とかいう満足感。周りが「良い」というので、自分でもよくわからないけど、それは「良い」という気分にさせられてしまうのです。
それらの満足を追い求めている姿。これが、今日登場している群衆の姿でありましょう。
時の人であるナザレのイエス。その方からパンを貰って、一時は満腹した。この満腹感、満足を追い求める姿です。ここで実際に満足してしまっているので、「もう一度あの満足感を」という思いに駆られてしまうのでしょう。そのような思いでイエスさまを追い求めてしまう...
でも、その追われ方をイエスさまは喜んでいたでしょうか?結構迷惑そうですよね。もちろんイエスさまと共に居ればいつでも「満足」できますよ。でも、自分が満足したいから、自分の欲望を満たして欲しいからイエスさまの所に行くとか、イエスさまを利用しようとか、それは主が喜ばれないことです。
私達は「満足」が良いものだ、という固定概念を持っていないでしょうか?この固定概念に縛られていると、いつの間にか神さまを利用しようとする罠に捕らわれてしまいます。自分の満足感じゃない。神さまの満足感を満たせるようでありましょう。
ポイント2 永遠の命に至る食物を得よ(27節)
イエスさまは「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。この言葉は私たちを困らせないでしょうか?
そもそも、皆さんの中に「永遠」という時間の概念は出来ていますか?何度も説教の中で語っていることではありますが、私たち日本人には「永遠」という概念を持つことが非常に困難なのです。これも固定概念かも知れませんが、「生まれ変わる」とか、「死んだら無の世界」という概念がしっかり固定されてしまっていて、これを打ち崩すのが非常に難しいのですね。
でも、誰だって無意味な仕事はしたくないし、無意味な人生を送るのはいやですよね。誰だって嫌ですよ。それは、時折生きていることの無意味さに押しつぶされて自ら命を絶つ方がいるくらいですから。
それでは私達は、価値のある、しかも永遠の価値あることのために働いていますか?どうでしょう?
永遠に価値あるものを考える時、私達はまず「永遠」という概念を造りださなければなりませんね。では、私たちの思考の中でその概念を作り出せるのかと言うと、ちょっと無理だと思うのです。それこそ「無から有を生み出す」みたいなことです。もともと有限である存在が、無限である永遠を考え、作り出すことは出来ないのです。
それでも、人間の心には「神は(すべてを時宜にかなうように造り、また、)永遠を思う心を人に与えられる。(それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。)」(コヘレト3:11)とあるように、永遠に対する思い、憧れのようなものが与えられているのです。
だから、永遠がわからない人間に、神は独り子を遣わし、復活の命を与え、永遠の命を与え、私たちの目を有限から無限へと移して下さったのです。
私たちが「永遠の価値ある働き」をしようと思ったら、「永遠」という概念を造らなければなりません。その永遠という概念のために、主は「道」となって私たちを教え、導いて下さっているのです。
神こそが永遠に生きているお方で、永遠を支配されているのです。私たちも今永遠の世界に導かれ、永遠に生きる者とされました。決して終りのない世界、その中に住むものとして、自分の生活の営みに「永遠」の価値を持たせましょう。
ポイント3 神の遣わしたお方を信じること(29節)
では、その永遠の働きのために、まず何をするべきなのか?イエスさまから語られた群集もわからず、主に聞きました。そして主は答えました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と言う言葉を私達はよく耳にします。では、私たちが信仰を持ったことで、家族は救われたでしょうか?救われた方もいますし、そうでない方もいらっしゃるでしょう。実は、そうでない方のほうが多いのではないかと思うのです。私もそうですから...。
なぜ御言葉の通りにならないのか?不思議に思ってしまいます。それで、この約束について考えさせられるわけですが、どうも「信じなさい」というこの言葉、「信じる」という言葉がキーワードになっているような気がします。
「信じる」ならどうなるのでしょうか?あまりよくない話だとは思うのですが、うちの娘は食事の時に、集中して最後まで食べることが出来ないのです。途中でふざけ始めます。食べなくなります。「まぁ子どもだし、仕方ないか」と私は思うのですが、妻はそれを赦しません。絶対に、時には口から出したものでも全て食べさせようとするのです。
でも娘は食べたくないのですよ。ここで戦いが起こるわけです。そんな時、娘の母は何と言うか。「神さまが見ているよ」何て言うと、神さまの姿を傷付けてしまうでしょうから、「神さま」の名は「感謝して食べなさい」と言う時くらしか出て来ないのですが、その代わりに「お化け」が出てくるのですよ。
「食べないと、お化けが来るよ」と言うのです。そしてあたかも誰かが玄関から入ってきたかのようなそぶりを見せます。そうすると娘は、「いやー!!」と言って慌てて食べ始めます。時折、調度よくその時に誰かが玄関に来ると、娘は本当にお化けかと思って泣き出します。
信じる、というのはこういうことだと思うのです。本当に永遠の価値あることのために働いている、と信じるのなら、この世の「有限」のために「永遠」を台無しにするような働きは出来なくなるのです。また、嫌なことでも、「永遠」を信じているなら、娘が頑張って食べるように、頑張ってでもそれを成し遂げることが出来るのです。
「信じている」から自然と行動が生まれるのです。「信じていない」から行動が生まれないのです。そして「行動」が生まれないならば、結果も生まれません。
イエスさまは、「わたしを信じなさい」と言われました。そして信じる者を、「永遠に残る実を結ぶために遣わす」とおっしゃいました。「からし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かすことが出来る」というのです。ただ、その信仰は、信じた者としての行いも自然に伴ってくるのです。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(ヤコブ2:14)と言われる通りです。
信じた者の行い。この「信じる」という行為。これは神が成して下さる御業なのです。私達は神の力によって「信じる」者にさせていただいたのですから、神の業を疑わず、信じる者としての行動をいたしましょう。
結論 この世にあって、信じる者とさせていただけたことは、非常に幸いなことです。もしこのお方を知らなければ、私達は一時の満足感のみを捜し求めながら終りのない欲望の旅をしなければならなかったのですから。
イエスさまの十字架によって、そこから救われ、永遠の価値ある人生へと招かれた私たちです。もし、今でも神に頼る前に自分の力や知恵を頼っているのなら、そのことを悔改めつつ、心から神の業を信じて行きましょう。
信じる私たちに主は、素晴らしい祝福を用意してくださっております。