喬木教会礼拝説教
2003年8月17日(日)
終わりの日の復活 <ヨハネ 6章34〜40節>
◆イエスは命のパン(続き)
34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
導入 ちさこ先生が私の父の看病ということもあり、私の実家に行っておりました。その間、神学生が来てくれていたのですが、多くの方に気を遣っていただいて、食料をたくさん頂きました。普段ちさこ先生がいたら、こんなには食べられないだろうなぁと思うほど、美味しいものをたくさん食べ過ぎてしまい、私の幅はより広がったように思えます。牧師が太るのは、皆さんから愛されている証拠なのかなぁとも思わされるこの頃です…
概略 さて、前回の箇所で、パンを食べて追ってきた群衆に、イエスさまは「信じる」ことの大切さを伝えました。今日は、信じることから、満たされ、永遠の世界に備えることを教えているように思います。終わりの日。そして復活を見てみましょう。
ポイント1 飢えや渇きから解放される(35節)
現在は飽食の時代と言われ、不景気でありながらも食べ物が満ち溢れています。しかしその半面、世界では食べ物がなくて死んでいく人もたくさんいることを私達は知っております。飢えや渇きがどれだけ恐ろしいものであるか、私達はその怖さを忘れさせられているような気もします。
では、私達は飢えていないのでしょうか?乾いていないのでしょうか?
食事の面では、確かに飢えも乾きもないでしょう。でも、魂はどうでしょうか?
イエスさまはおっしゃいました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4、申命記8:3)と。
私たち人間は、栄養を取って、食べる物を食べておけば、確かに生きながらえることは出来るでしょう。でも、それが本当に満ち足りて、本当に人間らしい生き方なのかというと、どうですか?最近のニュースを見ればわかるように、犯罪の低年齢化。重要な立場にいる人々の汚職。ワイドショーなんかでも言われているように、社会の何かが狂い始めていて、誰もがその危険性を感じてはいるのです。でも、何が狂っているのか、どのようにして修正していくべきなのかはわからない。どうにもならない、という現状です。
なぜそのようになるのでしょうか?「心の時代」という言葉が一時期盛んに使われておりましたが、心が満たされず、空腹になっているのですよ。詩編の1編には「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。」(4節)とあります。もみ殻って風が吹けば大事な中身を落として飛んで行ってしまう部分ですよ。魂の中身がなくなっている、ということです。
自分の魂に重みを感じない。自分の魂が飛んで行ってしまうような殻の状態なら、他人の魂の重みを感じて、敬うことなど出来るでしょうか?出来ないですよ。よく言われます。「自己受容と他者受容は比例する」と。自分で自分を受け入れた分、他人のことも受け入れることが出来る。主は重要な戒めとして、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39、レビ19:18)と言われました。自分を愛さなければ他人を愛することが出来ないのです。だから当然、神さまを愛することも出来ないでしょう。
皆さんは、しっかりと自分自身を愛していますか?
愛せない時、自分の心に空腹の部分、渇いている部分があるのです。イエスさまは来るならば、その飢えることなく、信じるならば渇くことがないと言われました。自分に飢えや渇きがあることに気付かない人もたくさんいます。世間に恥じないように、と表面を気にするあまりに、魂の内側をおろそかにしてしまう弱さが私たちにはあります。今、心を素直にしましょう。
主は、私たちに「来る者は」と言いました。「飢えている人は」や「乾いている人は」ではないのです。「誰でもいいから来る人は」と言う。それは、私たちは誰もが飢えや渇きを持っていて、全ての人が満たされる必要があるよ。だから、誰でもいいから私のもとに来なさい。来るならば、あなたの魂を満たしますよ。と言うメッセージです。
私達は、自分の心の状態を素直に認め、このお方の所に行き、この心を満たしていただきましょう。
ポイント2 御心を行う(38節)
私達は感情を持っていますね。だから、この感情によって物事を見、また考え、行動してしまうのです。
イエスさまは私たちを満たす、と言われました。そして約束通り満たして下さいます。満たされた後はどうなるのでしょうか?ここで私達は気を付けたいと思うのです。
満たされたると、私達は嬉しくなります。心が喜びに満たされます。ちょうど美味しい料理をたくさん食べた後のような状態ですね。程よく食べ、満腹になると私達はどうなりますか?幸せな気分でそのままゴロンと寝っころがって、休みたくなりますよね。
満たされる、という状態の素晴らしさを経験すると、私達はついそこに安住したくなるのです。数年前になりますか?「チーズはどこへ消えた」という本が随分売れていましたが、美味しいご馳走を見つけたら、いつまでもそれにしがみついて、新しい道へ進もうとしないという習性が私たちにはあるようです。その本では、そのチーズに安住したねずみはチーズがなくなっても、「そんなはずはない」と事実を認めようとせず、いつまでもそこに留まり、チーズに安住しなかったねずみはさらなるチーズを求める旅をして、さらにチーズを見つけて行く、という内容でした。
満たしを受けたならば、私達はその地に安住するべきではないのです。そこからさらなる喜びを求め、成功を求め、成長を求めて旅に出るものなのです。そのためには、イエスさまを模範とするべきでしょう。
イエスさまは、神であったのに人となってこの地上に来られました。そして人間として歩まれたイエスさまの業を見てみると、「自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」と言っておりますが、神さまの御心を行うことだけをしていたのです。この歩みが、自分の心を満たし、そして来る者の心をも満たすことが出来る秘訣だということです。
自分の思いではなく、この世界を造られたお方の意思を行うこと。そう聞くと、非常につらい、窮屈な感じを受けてしまいますが、実はそうではないのです。イエスさまは、「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われましたが、神さまの御心を行うこと、それこそが私たちが常に満たされ、喜びを心に、平安の内を歩んで行ける「道」なのです。
御心に従うよりも、自分の思いを優先したい。それが私たちの自然の心です。でも、その心を優先した結果が「飢えや渇き」であったことを私たちは経験しております。だからこそ、自分の思いを十字架につけ、神さまの実心を聞いて、それを行う者でありましょう。
ポイント3 終わりの日の命を得よ(39,40節)
イエスさまにとって、神さまの御心を行うとは、「終わりの日に与えられた人を復活させること」でした。
「終わりの日」を示されました。「終わり」がある。そしてそれと同時に「復活」があるのです。
私達は死にます。誰でも死にます。間違いなく死にます。そのことを考えたことありますか?ありますよね。では、私達は何のために生きているのですか?もし、死が最後だったら、私達は死ぬために生きていることになりますね。死ぬために生きて、どんな意味があるのでしょうか?全てが空しくなりますね。
イエスさまは終わりを示されました。でも、それと同時に復活を示されたのです。イエスさまのもとに行き、魂が満たされ、命のパンを頂くならば、私達は終わりの日に復活するのです。それは、輪廻転生とは違います。生まれ変わるのではありません。復活するのです。
復活するとどうなるのでしょう?永遠に生きるのです。神さまが永遠であるように、私たちもその世界に生きるようになるのです。イエスさまは、私たちが住むその場所を用意し、出来たらまた戻って来て私たちを迎えるとおっしゃいました(ヨハネ14:1~3)。
私達は永遠を生きるために、今を生きているのです。永遠の素晴らしい世界、死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない世界、涙がことごとく拭い去れる世界(黙示録21:4)で生きるために今を生きているのです。
今、私達が自分の意思と、神さまの意志とを見比べて、どちらが良いか、どうするべきか?と考えたなら、「まぁこの状況なら…」とか「少しくらいなら…」とか言って自分の意志を優先し、そのことに納得までしてしまうでしょう。でもそれは、復活する終わりの日を見ていないからなのです。
将来のために大きな計画があれば、私達は現在の苦しみを苦しみとも思わずに乗り越えることが出来ます。ましてや、魂の飢えや渇きが癒されているのです。現在神の御心を行うのに、どのような苦しみがあるのでしょうか?
現在の些末なことで、永遠の命を失うようなことはしないようにしましょう。御心を行い、やがてイエスさまが来られたならば、私達は胸を張ってイエスさまの前に行きましょう。主はご自身に与えられた人を一人も失わないようにと、今は聖霊さまとなって働いて下さっているのです。この聖霊さまによる導きに注意深く耳を傾けましょう。デボーションをすれば、その声はより鮮明に聞き取れるでしょう。
この導きに従って、終わりの日に命をしっかり得る者とさせていただきましょう。
結論 復活、永遠の命がない世界は本当に空しいですね。空しいから満たされることがありません。主は、その空しい世界から私たちを救って下さいました。
だからこそ、神さまの御心を知り、それを行っていけるように心がけましょう。主は「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)と言われました。
御心を行い、永遠の命、復活の恵みに与りましょう。