喬木教会礼拝説教
2003年8月31日(日)

つぶやき合うな      <ヨハネ 6章41〜51節>

◆イエスは命のパン(続き)

41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48 わたしは命のパンである。49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 

 父のお見舞いに実家に帰ります。父は意外と元気があって、看病する母によく文句を言っておりました。その母は、私に「まったく!!人がやってれば!!」とぶつぶつつぶやきます。そんな母に「つぶやくな」と言ったら「聞いてもらうことですっきりして新しい力を得る」みたいな返事が返ってきました。たしかに、時につぶやきを受け入れることで人は立ち直ったりしますが、本当にそれは健全でしょうか?

 

 パンを求めてやってきた群衆に、神の国の真理を教えている。前々回からの続き。

 

ポイント1 自分の価値観を捨てよう (42節)

イエスさまは5つのパンと2匹の魚で、5千人以上の人のお腹を満たしました。その現実があるからこそ、群集たちはイエスさまを追ってきたわけです。そしてまた私たちの腹を満たして欲しい、とお願いしたところ、私たちにとって何が必要であるのかを教えて下さいました。

その教えは非常に有益なものでしょう。終わりの日がある。信じること。メシアを頂くことで永遠の命が頂ける、等です。でも、それを聞いた人々はどのように反応したでしょうか?42節を見ると、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と言っています。

非常に素晴らしい御業を見て、経験した。でもよく考えてみると、その奇跡を行った人は、自分の知っている人の息子で、幼い時から自分と一緒に育ってきた人です。群衆は確かに素晴らしい奇跡を経験したのに、その気分を台無しにする事実を思い起こし始めたのです。

自分の価値観、自分の「こうあるべきだ」という思いが強いと、神さまが実際に働かれて素晴らしい奇跡を体験していても、その恵みを自分の意志で無にしてしまうのです。

クリスチャンの歩みはどのようなものでしょうか?せっかく救われたのに、救われる前と同じ習慣を引きずっていたのではもったいないですね。クリスチャンは新しくされたのです。古いものは全て過ぎ去っているのです。だから、毎日が冒険に満ち溢れているのかも知れません。常に新しいものにチャレンジしていく精神に満ち溢れます(と言ってもバランスも必要ですがね)。

古い形式に縛られた世界に、新しい希望と喜びの風を吹き込む役目は私たちクリスチャンのものですよ。そのクリスチャンが、伝統や形式、マンネリに陥ってしまうことがないようにしましょうね。心をオープンに、神さまが送ってくださる風を受けて、主の導きに敏感に、従順に従って行けるものでありましょう。

 

ポイント2 心を養っていただこう (45節)

イエスさまのことで躓きを覚えている人々に向かってイエスさまは、「つぶやき合うのはやめなさい」と言われました。「つぶやき」です。これは私たちがついつい普通に行ってしまうものであります。でも、それをやめなさい、と主は言われます。なぜでしょう?

つぶやきは何も生産的なものを生み出さないからです。教会の三悪用語がありますね。「でも」、「だって」、「しかし」。つぶやきはこの言葉を生み出しますよ。御言葉と現実をこの言葉でつなげてしまうのです。そうなるとどうなるのでしょうか。「神さまの約束」に対して「でも」をつけ、そして「現実の問題」を語ります。これでは、神さまの約束は何の意味もないものになってしまいます。

神さまの約束は絶対です。イエスさまは、神さまによって私の所に来た者は、終わりの日に命を得るよ。そして神さまによって教えられる人ですよ。と言っております。約束によれば、神さまのもとに来た者は、神によって教えられるのです。教えられていますか?

教えられたらどうなるのでしょうね。イエスさまは私たちをブドウの木に例えました。主に繋がっているならば、豊かに実を結ぶと言われました。ですから、教えられる人は、豊かな実を結ぶ人生を送るのではないでしょうか?その「実」とは何か、というと人それぞれで結ぶものが違うと思いますよ。それぞれの賜物に従った実を結ぶことと思います。でも何にせよ、豊かな実を結ぶのです。

ブドウの実を結ぶためには、不要な枝、葉はどんどん手入れをして切り取らなければならないようです。だから、私たちも実を結ぼうと思ったら、不要な部分をどんどん切り離して捨てて行かなければなりません。そうでなければ実を結べません。

不要な部分。先週は宇佐神先生の話をお聞きしているので、「進化論」こそが不要な部分の根源だ、とも思うわけですが、事実でしょう。そこから様々な不要な実を私たちは結んでいるのではないかと思うのです。それら一つ一つ、自分で切り捨てて行くのは難しいでしょう。ですから主に委ねて、切り取られる覚悟を致しましょう。

主に、「あなたの御手に私自身をお委ねいたします。どうぞ不要な部分を取り去って下さい。そしてあなたにある実を豊かに結ぶものとさせて下さい。もうつぶやきません。自分の『こうあるべきだ』という概念も、意志も選択も、全てあなたにお委ね致します」と祈りましょう。

常に私たちの心を良い地にしましょう。そのためには、「つぶやかない」こと。そして主からの教えを常に受け、豊かな実を結ぶ者でありましょう。

 

ポイント3 永遠に生きるパンを食べよう (51節)

信じることで永遠の命が与えられる。他の条件を除こう。信じるだけ。

つぶやかず、そして神から教えられて生きること。これは非常に素晴らしいことだと思います。ところで、教えられるというと、「訓練される」ということもあると思います。何でもかんでも自分の思い通りにはならない、ということです。よくキリスト教は優しい宗教で、人を愛することを教えているのだから、何をやっても赦されると勘違いする方も大勢いますが、でもそうではないですよね。自分の欲望を十字架につけ、主が歩まれたように歩んで行かなければならないのです。そのために、神さまから色々と教えていただかなければなりません。

そこで、神さまから「教えられる」、自分の欲望を捨てて主に従うということに、私達はどれだけの価値を認めていますか?

日本にはびこる宗教は、殆どが人間の欲が生み出した神々と言っても良いでしょう。人間中心の考え方、その結果に「願いをかなえてくれる神」として売り出すのです。でも、聖書が示す、この地上を造り、全てを支配しておられる方は、人間の思いをつらぬくことではなく、神さまの求めることを行いなさい。そのことを学びなさい、と言われました。だからイエスさまは別のところではこういいました。「疲れた者、重荷を負う者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのクビキを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私のクビキは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28~30)。

学ぶということと、重荷を負うということが一つのセットにされているようです。

もし私たちが、この地上の生涯だけで全てを終えるなら、自分の欲望を捨て、主に学び、主に従うということは、何と無駄な歩みになってしまわないでしょうか。パウロも言いました。もし私たちがこの地上の生涯だけで終わる、復活がないのであれば、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(1コリント15:32)と言っております。

だからこそ、パウロは繰り返し主張しました。私たちには死んだ後の人生があるのだ、と。それを復活と呼んでいました。「復活」です。永遠の命があるのです。

この永遠の命を目指して行かなければ、私達は何のために御言葉に聞き従うのでしょう?この世で体裁を整えるため?人を教え説教するため?この世でクリスチャンであることを証しするため?もしこれらのことのためであれば、パウロが言うように、「エフェソで野獣と戦ったとしたら、何の得があったでしょう」(同)と言っているそのことと同じことになります。

永遠の命を与えるためにイエスさまは来て下さり、私たちに永遠の命を下さったのです。主の恵みをしっかりいただいて、永遠に至る道を歩み続けたいと思います。そのことを主は、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言いました。

食べたものが私たちの体を作ります。主を食べることによって、主の道を歩み続け、主と同じことをして、主の栄光を現す体へと造りかえられて行きましょう。

 

 私たちの世界では、つぶやき、不平不満そして悪口はよく聞こえてきます。そしてこれらをもって、人と意気投合したりして、仲良くなったりもします。社会形成の重要な要素になっているのかも知れません。

でも、私達はそれらに加わりません。生きたパンである主を頂くことによって、私たちの否定的な思いから解放され、目を常に永遠に向け、豊かな実を結ぶ歩みをいたしましょう。手始めの適用(実践)として、つぶやきをやめましょう。