喬木教会礼拝説教
2003年9月7日(日)

天から降ってきたパン   <ヨハネ 6章52〜59節>

◆イエスは命のパン(続き)

52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

 

導入 最近、ある方が体の疲れを覚える私にサプリメントを紹介してくれました。サプリメントとは何か。詳しく説明できるほど私もよく理解してはないのですが、抗生物質などを使わずに出来た栄養剤みたいなもので、副作用もなく、体の機能を活性化させるもののようです。だから、飲み続ければ健康な体が作られるようになる、とのことでした。良い物は高いものですが、値段も良い物の割には安いのかなぁという感じで、購入について考えさせられている所です。なんにせよ、体を作ろうと思ったら、良い物を取り入れていないといけないのだ、ということを思わされます。

 

概略 パンを食べたいという群衆の思いから、ずっとその話が続いております。今日はいよいよ、イエスさまご自身がそのパンだ。私の体を食べなさい、というところです。私の体を食べろと言われた群衆は戸惑いますが、その意味はどのようなものでしょうか?

 

ポイント1 イエスさまの肉と血を頂こう(53節)

私たちの体は、食べるものによって作られますね。体に良いものを食べれば健康になるし、体に悪いものを食べれば、後に様々な病を誘発させます。テレビでは毎日のように、あれはこんな効果がある、これはあんな効果がある、と健康食の話題を取り上げておりまして、それを楽しみに見ている方も非常に多いようです。みんな健康に気を遣い、何を食べるべきなのか考えているのですね。

イエスさまは、自分が天から降ってきたパンであると言われ、自分を食べるなら、その人は永遠に生きると言われました。でもこれは、聞き方によっては気持ち悪いことですね。人種によっては人を食べる習慣を持っている民族もいるようですが、一般的には人が人を食べることは出来ないですよね。イエスさまが言う、「わたしを食べろ」とはどういう意味なのでしょうか?

私たちの体を一番健康にするための食物を食べなさい、ということです。その食物がイエスさまはご自身の体だとおっしゃったわけですが、これをどのようにして食べることが出来るのでしょうか?

イエスさまは公の生涯に出る前、荒野に行って3つの誘惑を受けました。その中の一つで、試みる者が近づいてきて言いました。「腹減ってるだろ?ほら、ここに石があるけど、これをパンに変えて食べなよ。あんたは神の子だから、それくらい簡単に出来るだろ」と。その時にイエスさまは言いました。「腹は減っているけどね、聖書に書いてあるだろ。『人はパンのみによって生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』ってね。だから大丈夫だ」と(マタイ4:3,4)。神の口から出る言葉によって人は生きる。そのせいでしょうか。40日40夜、イエスさまは飲まず喰わずで過ごすことが出来ました。

では、神の言葉とは一体何でしょうか?ヨハネ福音書の最初にありましたね。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1:1)。言葉は神であって、このお方がイエス・キリストだということです。

ならば、私たちがイエスさまを食べなさい、と言われてすることは何でしょうか?イエスさまの言葉を食べる、聞く、ここに生きる、ということであります。まさに信仰とは聞くことから始まる(ローマ10:17)のです。日々のデボーションにおいて、しっかりとイエスさまを頂いて歩むようにいたしましょう。

 

ポイント2 復活に生きよう(54節)

イエスさまの言葉を食べて行くと、私たちの体にどのような変化が起きるのでしょうか。御言葉に養われると、復活の主を非常に近くに感じますね。復活の主を知ります。復活に触れるのです。

復活とは何ですか?死を打ち破る、ということです。死とは?罪のゆえに課せられた呪いです。死があるので、人は空しさを覚え、苦しむのです。死があるから、「どうせ最後は...」という否定的な考え方が生じるのです。死があるので、「今さえよければ良い」という考え方になってしまうのです。

復活があればどうでしょう?否定的な概念に惑わされることがなくなりますよ。「駄目かも知れない」という現実に対しても、復活があるので、でも大丈夫!!となるのです。復活があるので、肯定的になれるのです。

クリスチャンはキリストの内に生きる者です。もし、クリスチャンでありながら、未だに否定的な概念に捕らわれてしまうのは、復活の恵みに十分与れていないからかも知れません。

人は自然にしていれば、否定的なことしか考えないそうです。否定的な心配事ばかりしてしまうのです。「あぁ、今日は礼拝だから慌てて、朝食もとらずに教会に来てしまった。帰りに空腹から集中力を失って事故を起こしたらどうしよう」とか、「今日は礼拝終わったら家族で食事に行こう。でも、行った先で自分の好きなメニュー全てに自分の嫌いなナスが入ってたらどうしよう。今旬の野菜だからなぁ」とか。せっかく楽しめる状況にあっても、その先にありそうもない想像を膨らませて心を暗くしてしまう。その心配の起こる確率ってどれくらいでしょうか?半分もないですよね。半分の半分の半分の半分くらいでしょうか?だから人は在り得そうもないことで心配してしまうことが多いそうです。

でも、そこに「復活」があるとどうなるのでしょう?「空腹?あぁ、断食して祈れるから良いなぁ」とか、「ナス?あぁ、好きな人がたくさんいるから分けてあげよう」とか、もう何が来たってそのことによって最善の御業が成される、と信じられるので、楽なものですよ。

どうしようもない現実、まさに十字架の死という最も悲惨な現実に対してまで、「復活」という勝利が与えられているのです。この恵みは、今も私たちに与えられています。だから、現実に対して御言葉がどう言っているのか、そこから神さまの御力に期待して、希望が湧いてくるのです。だからクリスチャンはへこたれません。パウロはこの希望から、たとえ「外の人」が滅びようとも、「内なる人」は日々新たにされる!!(2コリント4:16)と言ってこの喜びを現しています。

復活の恵みに生きる者でありましょう。

 

ポイント3 永遠の中に住もう(58節)

ところで皆さん、「永遠」という時間の概念を持つようになりましたか?復活する、それは「永遠の命を得」、なされる御業ですよ。そしてそれは、死んで復活した時から始まるのではなく、58節を見ると、「このパンを食べる者は永遠に生きる」というように、イエスさまを食べ始めたその瞬間から始まるのです。

ですから、私たちが今生きている、この時も「永遠」という時間の中で生きていることになるのです。この地上に生きるクリスチャンにとって、この「永遠」という時間の捉え方は非常に重要です。

先日、宇佐神先生から進化論と創造論についてのお話をお聞きしました。進化論とは全くの出たら目である、これは世界的には常識のように受け入れられている事実です。ところが、日本ではそのことが公表されない。

そのため、クリスチャンとなって、神さまが全てを創造された、と信じている人であっても進化的な創造であったのではないか、と自然に考えてしまっているケースがあります。

聖書を見れば、地球の誕生は今から6千年前になる。聖書を誤りなき神の言葉、と信じていても、6千年では短すぎるのでは...とクリスチャンが疑問に思ってしまう。全て進化論の影響なのです。

この進化論のもたらす最も有害なものは何かと言うと、人の目を「永遠の世界」から反らせることです。「神」という存在を認めず、永遠を思わせない。人は偶然の積み重ねで進化し、やがてもっと素晴らしい世界を築いて行ける、という思いにさせてしまうのです。

イエスさまは福音書の中で、様々なたとえ話を語られましたが、これらの話を、現実的なこととして受け止めると、理解に苦しんだり、ヒューマニズムで捉えたり、訳のわからない話になります。でも、それらのたとえ話も、永遠の世界について語られている。永遠の世界の価値基準について語られている。その価値基準を今の世界でも用いるべきなのだ、というふうに考えると、非常に納得のいくたとえ話となるのです。

イエスさまは私たちを助けるために来て下さいました。私たちを助けるために、十字架にまでついて下さいました。それは今のためだけでしょうか?違いますね。死に打ち勝ち、復活の恵みに与り、永遠に生きる者となるためであります。

だからこそ、私達はこの地上に生かされている今であっても、永遠と言う時間の視野を持ち、永遠の国を思いながら日々の決断、行動をなすべきなのであります。

キリストの体、これを頂くところから、永遠の世界が始まっております。永遠に生きる者として、時間の使い方を考え、決断をするようにいたしましょう。

 

結論 この世は有限です。有限の中にいれば、有限の考え方しか出来ません。でも創造主なる神は、私たちに永遠の思いを組み込まれているのです(コヘレト3:11)。失った永遠への思いをもう一度取り戻すために、御言葉を日々食べて、神の子としての体を作り直しましょう。そして、復活という希望のもとで、日々の生活に勝利し、そのまま永遠の世界へと向かって参りましょう。