喬木教会礼拝説教
2003年9月14日(日)

命を与える霊の言葉    <ヨハネ 6章60〜71節>

◆永遠の命の言葉

60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。63 命を与えるのは"霊"である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 

導入 クリスチャンのフィクション小説で「レフト・ビハインド」というものがあります。つい先日これの4巻が発売されたのですが、これが非常に面白い。本当に神さまが働かれていることを感じさせられ、ついつい感動してしまいます。この本を読み始めると、仕事が手につかなくなってしまうのでいけませんが...

この物語の内容は、再臨の主が来られ、クリスチャンが一斉に携挙された後のストーリーです。教会に通っていながら取り残された人。教会を拒否していたので取り残された人。そして福音を全く知らなかった人。それぞれが携挙の事件をきっかけに信仰を持つようになります。そして大艱難時代を信仰によって乗り越えようとするのです。

この中で、時折感心させられるのは、主人公たちが徹底して主に従おうとしていることです。もちろん主人公ですから、それくらいでないと困りますが、これを私たちの生活に置き換えて見る時、ここまで自分の弱さを認めていただろうか、ここまで主のためにと犠牲を払えるだろうか、と信仰のあり方を教えられるのです。ぜひ皆さんにも読んでいただければと思います。

 

概略 イエスさまの話を聞き(肉を食べ、血を飲め)、その話について行けなくなった群衆、そして弟子達。主は落胆するが、12弟子はイエスさまに従うと告白する。

 

ポイント1 霊の体を持て (64節)

前回イエスさまは、イエスさまご自身の体を食べ、血を飲めばあなたたちは永遠に生きる、と言われました。この言葉に人々はつまずいたのです。ただでさえ、人間を食べるということには気持ち悪さを感じます。さらに、自分を通して永遠の命を得るということは、イエスさまご自身が永遠の存在、神であると宣言しているようなものです。人間が自分を「神」とすること、これは神を冒涜することですし、愚かなことです。

ですから人々はつまずきました。確かに腹は満たしてもらったが、そんな愚かなことを言う人にこれ以上は着いて行けない、ということです。

その群集を前にイエスさまはがっかりしました。61,62節です。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……

イエスさまが語られた言葉以上のことがこれから起ころうとしているのです。その前段階なのに、人々はそれを受け入れられない。であるならば、神の栄光に預かることはなおさら出来ない、ということなのです。

イエスさまは続けて、「肉」と「霊」について話をされました。

私たちの持つ体は「肉」であります。生まれながらの人、罪を犯す者は「肉」の人であると聖書は語ります。そして、イエスさまによって新たに生まれ変わった者、罪のない者が「霊」となると言います。それは、生まれたままの状態、「肉」の状態であるならば、「霊」については全く理解することが出来ないということなのです。そして、イエスさまが示す真理は、全て「霊」によって語られているのです。

では、私達はイエスさまの言うことを全く理解出来ないのでしょうか?そうではありません。私たちを霊の人とするためにイエスさまは命をかけて下さいました。主の十字架によって罪赦され、霊の命を頂いたと信じ、告白した者は霊の人なのです。この霊によって聖書を開くならば、私達は聖書の世界を知り、素晴らしい真理を手にすることが出来るのです。

主の御業を感謝しつつ、聖書に親しむ生活を続けましょう。命である霊に満ち溢れましょう。

 

ポイント2 主の恵みの内に留まれ (68節)

去っていく弟子達。イエスさまは12弟子を見つめて、「お前達も去るか?」と聞きました。弟子達は去りません。ペトロは答えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と。

この時、弟子達は聖霊さまを受けていませんから、どちらかと言えば肉の人だったのかも知れません。でも、彼らは感じていたのです。イエスさまの中にこそ「永遠」があることを。だから、彼らは彼らの意思でイエスさまのもとに留まることを選びました。そしてその決断どおりの恵みを後に頂くのです。

よく私達は教会教育として、クリスチャンとして〜しなければならない、と考えてしまうのですが、イエスさまの教育方法は違いましたね。人々に真理を示します。そして神が何を望んでおられるのかを教えます。その後、それに従うかどうかは全てその人に委ねるのです。その人の決断が最も重んじられ、その決断通りに全てを整えて下さるのです。

だから去ろうとする弟子達を前に、イエスさまは彼らを引きとめようと試みておりません。たとえそれが12弟子であろうと、去る者は去らせるのです。

私たちに与えられている神の子としての資格、これも同じですね。私達はイエスさまを信じることによってこれを得ます。神の子となる資格は、決して私たちの側で努力したとか、奉仕したとか、相応しい歩みをしたとか、そんなことで得られるものではないのです。信じるだけでいただけるのです。そしてその頂いた資格は、有効期限がないのです。また、私たちが相応しくないからといって取り消されるものでもないのです。

ただ、もし私たちの側で、神の子としての資格を必要ない、いらない、受け取らないと決断するなら、私たちのもとからその資格は簡単に消えます。

私たちがどう決断するか。それが神さまの前でとても重要なことなのです。

私達は常に恵みの中に留まる決断をし、神さまにそのことを告白して参りましょう。

 

ポイント3 主のクビキを負え (70節)

弟子達が留まることを聞いてイエスさまは語りました。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」と。12人、全てイエスさまが特別に選んだのだ。あなたたちは特別だ、と。でもその後に言葉を続けました。「ところが、その中の一人は悪魔だ」。イエスさまは誰が後に裏切るかわかっていたというのです。

裏切られること。これは非常に辛いことです。裏切られることで私たちの心は深く傷付きます。イエスさまの場合、心が傷付く上に、その行為ゆえに十字架が来ます。最高の苦痛と死です。その裏切りは人間的に許しがたいものでしょう。

でもイエスさまは、その裏切る者であっても、私が選んだのだ、というのです。なぜでしょう?神さまのご計画だからです。神さまのご計画であれば、大きな苦難、苦痛も全て受け止めるべきであることを示しておられるのです。

普通に考えたら、困難が先に見えたら道を避けて通りたいと思います。自分からあえて火中の栗を拾うことはありません。苦しみは排除していくものなのです。でもイエスさまはそうではなかった。楽な道と苦しい道があったら、あえて苦しい道を選んでいるのです。御心とはそのようなものだからです。

苦しみを背負うには勇気が必要です。忍耐が必要です。そしてその後に来る祝福、これに対する希望が必要です。これらは「肉」の人では持つことが出来ません。「霊」によってのみ持ちえるものなのです。

主を信じる者は「霊」によって生まれ変わった者です。この世と上手くやることを望むのではなく、神さまの御心を求め、世と戦うことを選んだのです。神さまが私たちに求めておられることはないでしょうか?あるならば、私達は勇気を持ってその道を突き進みましょう。

 

結論 神さまの御心、それは私たちにとって都合の良いものばかりではありません。でも、御心を行う所に私たちの幸福があり、生きる道があるのです。だから、命の御言葉によってつくり変えられ、主の御心を選び、成す者とさせていただきましょう。