喬木教会礼拝説教
2003年9月21日(日)

時を待つ          <ヨハネ 7章1〜9節>

◆イエスの兄弟たちの不信仰

1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

 

 最近、新聞に入ってくるチラシ、特に電化製品のチラシに目が奪われます。そして、チラシを見ていると欲しくなるんですねぇ。今持っている物が不十分のような気がしてしまうで、見に行きます。「いいなぁ」と思う。よし、セールをしている今が買い時だ!!と思うわけですけど、本当にそれが買い時なのでしょうか?

 

 今日はイエスさまの兄弟たちが出てきます。そして彼らもイエスさまを信じていないんですね。信じていないのに、イエスさまに助言をします。今が売り出し時だよ。出て行った方が良いよ、と。本当に時なのでしょうか?

 

ポイント1 人の計画に惑わされないこと (4節)

イエスさまの兄弟たちが、イエスさまに言いました。「あなたはこれから立派なことをしようとしています。そのことは、出来るだけ多くの人に知って、賛同してもらい、あなたの影響力を十分に強める必要がありますよ。そのためには、このガリラヤという貧乏人の片田舎でくすぶっていないで、大都会であるエルサレムに行くべきですよ。そうしたら、あなたの名前は売れ、支持者も増え、やろうとしていることを容易にやれるようになります。さぁ、この祭りの時が絶好のチャンスです。エルサレムに行きましょう!!」

この兄弟たちの申し出は理にかないますね。立派なものです。本当にそうした方が良い、ということもある言葉でしょう。でも、イエスさまはその言葉を拒否しましたね。なぜでしょうか?

それは、彼らは自分の理屈、自分の思い、自分の基準から、神を無理やり動かそうというものです。

神さまのご計画について、聞いたことがあるでしょうか?最近出版された本で「天の御国.com」というものがあるのですが、この本に非常にわかりやすく神さまのご計画について記されております。

まず神さまの予定、グランドデザイン(総設計図)と言われるものがあります。これは天地創造から終末に至る全ての予定です。

続いて摂理、経綸があります。予定に基づいて運行されていくものですね。この摂理は数世代にわたって成される神さまのご計画です。

そして召命、使命といわれるものがあります。これは各個人に与えられることが多いですよね。ですから一世代でなされる神さまのご計画ですね。

最後に導き、と言われるものがあります。これは予定、摂理、使命の中で個人が具体的になすことを教えられるものです。

細かく分けるとこのようになりますが、神さまの最善のご計画があり、その中で生きている私たちですから、このご計画を理解して、それに合うような形で生きるのが最善でしょう。ところが人は、このご計画を無視して自分の計画を勝手に築き、それに従って生きることも出来るのです。

イエスさまの兄弟たちは、自分たちなりにイエスさまの生涯を計画してくれました。そして「今が最善の時だ」と教えてあげて、「今動け」と言いました。

生きてきた過去のみしか知りえない人間の立てた計画と、永遠に存在し、全てを支配されているお方が持っているご計画と、私達はどちらに従った方が良いのでしょうか?考えるまでもないですよね。

神さまのご計画こそが最善で最高ですから、人の語る言葉や計画に惑わされないようにしましょう。

 

ポイント2 世とは一線を画すこと (7節)

神さまの最高のタイミングをわきまえ知るためにはどうしたら良いでしょうか?この世から一歩退くことですね。この世の人は、今の社会情勢から、流行から、色々なことを言って私たちを惑わすのです。でも、それはやはり限りある時間内での計画であって、しかも不確実なものです。これらのものから一歩退いて、永遠を支配しておられるお方は何を望んでいるのか、そのことに心をとめるわけです。

何でもかんでも一歩退いて主の御心を求める、というと聞こえは良いのですが、本当にそれを実行できるかどうか、と考えると難しいのではないのかなぁと思わされます。実際、それが出来ないので買い物をした後に後悔してしまったり、自分の言った言葉に後悔したり、時間の使い方に後悔したりしてしまうわけです。

それに、友人や家族と過ごしているのに、何かにつけて「ちょっと待って!!今神さまが何を求めているのか、祈ってみるから」なんて言うことは出来ないですよね。

それならば、どうするのでしょうか?繰り返し語ることではありますが、祈りの時間を持つことです。デボーションですね。祈ると言っても、自分の思いや望みだけを一方的に語る祈りではないですよ。一人で静まり、聖書を通して神さまの御声を聞きつつ祈るのです。

この祈りの中で、神さまと深く交わり、霊的な部分で勝利を得、その日一日なすべきこと、避けるべきことを教えられるなら、私達はこの世と同じことをしていても、歩調を合わせないことになるのです。

そもそもイエスさまがそのような歩みを成されていたのです。その結果、世から憎まれることになりました。であるならば、イエスさまを救い主、王の王として仰ぐ私たちも、世から嫌われてしまうのでしょう。逆に言うと、嫌われなければおかしいのかも知れませんね。

もし私たちの中で、神さまとの関係が深まらない、信仰の喜びがない、決断が出来ない、捧げられない、という思いをもつ方がおられたら、自分をもう一度見つめなおしてみて下さい。イエスさまを憎んだ世に取り入ろう、気に入られようと思ってはいないでしょうか?神さまと上手くやることよりも、世と上手くやることに力を注いでいないだろうか。自分の心を占めている関心は何処に向いているのでしょうか。

この世において信仰生活をするのですから、この世のことを無視したり、否定したりすることは出来ません。でも、心の内では世と自分との間に一線引いて、祈る一時を持つようにしましょう。そして世から嫌われても、人から裏切られても、決して私たちを見捨てず、命がけで愛して下さるお方のもとに留まりましょう。

 

ポイント3 時を教えられる (8節)

最後にイエスさまは「まだ、わたしの時が来ていない」といわれました。新約聖書では、「時」という語を用いる時、二つの言葉が使われているようです。一つは「ホーラー(ωρα)」、もう一つは「カイロス(καιροs)」です。「ホーラー」は、神の絶対的なご計画の中で、変更不可能な時を現します。そして「カイロス」は「好機」とか、「チャンス」とかいう意味を持っています。

イエスさまがこの箇所で使われた「時」とは、「カイロス」でした。だから、最初に兄弟たちは、「公に自分を表しなさい」と言いましたが、イエスさまもその機会を狙ってはいたのでしょう。だから、「今はその好機ではないですね」と答えたのです。これは「好機」、「時」が来たら、私はそうします。ということです。ですから、この後の箇所ですが、イエスさまは祭りに行きます。好機、チャンスが来たからでしょう。

このチャンス、時とは、将来のことまで全て知っておられるお方、神さまが教えて下さらなければ、私達はいつがその時なのかわかりません。でも、祈っていたらその時がわかるということですよね。

そして時が教えられたらどうなるのでしょうか?私達は強くなりますよ。恐怖がなくなります。今日の最初の箇所を見てみると、「ユダヤ人が殺そうとねらっていた」とあります。イエスさまは命を狙われていたのです。命を狙われていたら、エルサレムに行けと言われても、「いやぁ〜、時がまだだから」とか言って逃げたくなりますよね。

でも、神さまが「ここだ!!行け」と言われるなら、必ずそこに勝利があるのですから、その勝利を得るために出て行くことが出来るのです。神さまの時、これを捕らえることこそが私たちの勝利の秘訣でしょう。

イエスさまはその導きに従って十字架まで進んで下さったのです。そして十字架から復活です。私たちも、この時を逃さないならば、「負けた!!悔しい!!」と思うことがあるかも知れません。でも、その後に必ず神さまの勝利の御業がなされるのですから、そこを信頼して飛び出して行きましょう。

 

 時を待つ、これは忍耐と勇気が必要かも知れませんね。だからこそ、人に惑わされることなく、祈りの時間を確保し、そして時が来たら勢いよく飛び出しましょう。