喬木教会礼拝説教
2003年10月5日(日)

遣わした方を知る      <ヨハネ 7章2531節>

◆この人はメシアか

25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

 

概略 人の権威しか知らない群集に、自分を遣わした方の偉大さを示すイエスさま。自分がどこから来て、何をしているのか、そのことを知ることが本当の意味で幸せであることを覚えさせられます。

 

ポイント1 私たちの存在の根源はどこでしょう? (28節)

父の葬儀に参列していた方が一人、教会に興味を持ち始めたとのことでした。若い青年ですが、彼と話をしたところ、彼は聖書の語るところは、結局プラス思考になることを勧めていると理解した、とのことでした。

確かにクリスチャンになるとプラス思考になります。でも、思考を変えるだけでしょうか?私は彼に訪ねました。「何のためにプラス思考になるの?」と。彼は「今」を乗り越えるため、と答えます。私はなお突っ込んで、では「今」は何のためなの?と聞きます。すると最終的には「死」という問題が出てきます。

どうせ最後には死んでしまい、この世で得た物は何も持って行けない。ならば何のためにプラス思考になるのか?マイナス思考でいても、プラス思考でいても、誰にでも「死」という問題はつきまとう。この問題を解決しない限り、本当の意味での充実感、プラス思考というものは在り得ないのではないか、ということになりました。

日本の教育は、神道的な考え方が染み付いているからでしょうか。死を忌むべきものとして考える傾向があります。そのため、「死」を意識しないように心がけます。そして、今を楽しむこと。今を乗り越えること。又は数年後の将来を考えることを勧めるのです。

聖書は私たちの存在をどのように語っているのでしょうか?

まず神が存在します。この神は創造主であり、世界を造る、私たち人間を造られたお方であります。そして私達はこのお方に造られているから、このお方に愛されていると言います。

私たちが存在しているのは、決して偶然の積み重ねの結果ではなく、創造主なる神の大きなご計画の中に存在し、生かされている。そして死でさえも、このご計画の中の一つであり、死が全ての終りではないと述べています。

私たちの存在、それは、目に見えるところによれば、私達は父と母の間に生まれ、何処どこで育ち、どんな経歴を持っている、と言えるでしょう。それは自分で計画して出来たものではないかも知れません。でも、この時代に、そのような存在として私たちを造られたお方は、そのことを知っておられ、そのように計画したのです。

イエスさまは、自分がいること、存在し、行っていることは全て遣わされた方によるのだと述べています。これは私たちにも同じことが言えるのです。私たちの存在の根源、それは創造主なる神にあることを覚えましょう。

 

ポイント2 私たちの生きる力はどこから来ますか? (29節)

最近は「生きる」ことをテーマに様々な書物が出版されていますが、その殆どが「肯定的に生きる」ことを勧め、「肯定的思考」の持ち方を色々と紹介しているように思えます。

でも、目的、死に対する解決がなければ、「肯定的」に生きるために、絶えず自分を奮い立たせなければなりません。これはなかなか疲れる作業であります。それは、太平洋のど真ん中に落とされ、「さぁ、あとちょっと泳げば陸にたどり着くぞ」と言われているようなものです。泳いだ結果、どの国に行くのかもわかりませんし、どれくらい泳げば良いのかわかりません。「あとちょっとだから!!」と絶えず自分に言い聞かせなければ、疲れて沈んでしまうのです。

私達は創造主なる神さまによって造られ、天地万物を支配される神さまの所に行く時に、死という呪いから解放されるのだ、ということを知るならば、それは海を航海するのに十分な大きな船に乗ったようなものです。そこにはコンパスもあれば、大きなエンジンもあり、燃料もたっぷりあるのです。目的地がわかりますから、ひたすらにそこを目指して進めます。そこにたどり着く日を楽しみに出来るでしょう。この日を楽しみにする時に、私達は自然と肯定的な考え方になり、力が沸いてくるのです。

ある人は高収入を得るために、ある人は幸せな家庭を得るために、ある人は美味しい物を食べるために頑張るかも知れません。でも、それらは決して最終目標にはなり得ないのです。そうなると絶えず新たな目標設定をしなおして、終りのないレースを走り続けなければなりません。

私たちを造られたお方が、私たちの帰りを待っておられるのです。その所に帰るならば、自然と私たちの最終ゴールが見えてきます。そのゴールは、私たちの造り主、本当の親である神さまのふところです。ここにおいてのみ、本当の平安を、喜びを私達は受けることが出来るのです。

このゴールがあるから、私達は後ろのものは忘れ、前のものを目指してひたすらに走りぬくことが出来ます。目標が定まってこそ、私達は力配分も出来るし、力一杯走れるのです。

遣わして下さっている方を知る。生きる意味が生じます。向かう方向が定まります。全力で生きることが出来るようになります。目標を頂きましょう。

 

ポイント3 私たちが幸いな時間を過ごすにはどうすれば? (30節)

テレビを見る時、本当に多くのコマーシャルが流れて来ます。またTVショッピングもありますね。そんなのを見ていると、「これを買ったら幸せ(楽)になれる」と思わされてしまいます。本当に幸せになるのでしょうか?

たとえそれを得たとしても、この世の苦しみが減る訳ではありません。相変わらず人間関係に煩わされ、仕事に追われ、愛する者との死別もあり、苦しみは決してなくなりません。

このような世の中にあって、本当に幸せになるためにはどうすればよいのでしょうか?

イエスさまは、この地上での生涯を満喫されました。その生涯は、愛する人々から裏切られ、命を狙われ、最後は十字架で死ぬという、はたから見れば悲惨な生涯でした。でも、イエスさまはそのような人生を満ち足りた充足感の中で歩まれました。

人生を幸福に歩むにはどうすればよいのでしょうか?それは、決して世の価値観に捕らわれず、全てを支配しているお方の基準に従って歩むことです。そうであるならば、たとえ世の人々からは「悲惨」と思われたとしても、自分にとっては幸いな、充実した人生になるのです。

イエスさまは人々から命を狙われていました。でも人々の前に公然と姿を現し、語るべき言葉を大胆に宣べ伝えるのです。イエスさまは「神の時」を知っていたのです。

何事にも時があります。この時を逃さなければ、私達は幸せになれるのです。

私たちの罪を背負い、十字架の上で苦しみ、命を落とす。その苦しみを経てまでイエスさまが私たちに与えたいと思ったのは、永遠の命です。与えられた時を生かすために、聖書を開きつつ、神さまと共に歩みましょう。その時、周りの環境がどうあっても、本当の幸福を味わいます。

 

結論 私たちを創造し、生かして下さっている神さまを知ることで、人生に目標を見出し、今を生きることが出来るようになるのです。目標のない、空を打つような戦いをやめ、創造主なる神さまと共に歩んでまいりましょう。