喬木教会礼拝説教
2003年10月12日(日)

主のおられる所       <ヨハネ 7章3236節>

◆下役たち、イエスの逮捕に向かう

32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 

昨日、喬木教会では教会員同士の結婚式が行われました。この教会で救われ、この教会で出会ったお二人が結婚して一つの家庭を築く。何と素晴らしいことではないでしょうか。なおそのような魂が起こされ、信仰の継承がしっかりとなされる教会を形成していけたらと願わされております。

それにしても、愛する人と一緒になる、その誓いを立てるお二人の姿というのは、美しいものでしたね。愛する者と共に過ごす。その時間は何と幸せな時ではないでしょうか。

今日は、私たちを愛してやまない主が、私たちとどれ程共に過ごしたいと願われ、そして共に過ごすことが私たちにとってどれほど幸いであるのか、ということを教えられるようです。

 

今日も先週の聖書箇所の続きですが、人々はイエスさまの語る言葉を聞いて、この方こそがメシアだろう、とささやき始めるのです。この言葉を聞いて快く思わないのは、時の指導者達ですね。ファリサイ派と呼ばれる人物です。彼らは人を遣わしてイエスさまを捕らえようとしました。そして恐らく脅すなり、閉じ込めるなりして、イエスさまの影響力を潰そうとしたのでしょう。でも、イエスさまは語る言葉によってその場を逃れました。ファリサイ派にしてみれば、煙に巻かれたような状態でしょう。

煙に巻くような言葉かも知れませんが、イエスさまの語られた言葉なので、ここから教えられたいと思います。

 

ポイント1 神さまはどこにいるのでしょうか? (33節)

まずイエスさまが語られたことは何だったでしょうか?33節「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」でした。

私は今あなたと共にいます。でも、あなたたちはこの素晴らしさに気が付いていませんね。私はいづれこの場を去って、父なる神のもとに帰りますよ、これがイエスさまの言われたことです。

人々と共にいて下さるイエスさま。この状態はどんなに素晴らしいことでしょうか!!

私が生まれて初めて新約聖書を読み始めた時、そこに登場するイエスという人物、彼に触れました。それは凄い衝撃でしたね。世の中にこんなにすごい人がいたのか!!このお方はとにかく凄いぞ!!そう思いました。

それは、アメリカに行ったばかりで、英語も出来ず、車がないので出かける事もできず、学校も始まってないので友達もいないという、本当に暇をもてあます時期でした。暇をもてあましていましたので、「この素晴らしいお方に従ってついて行けば、暇することがない。そうだ、もしこのお方が今の時代に生きていて、『私に従いなさい』とボクに語ってくれたなら、僕も弟子達のように全てを捨てて従って行きたい!!」素直にそう思いました。そして、自分が2000年前のイスラエルにいなかったこと、今の時代に生まれたことを本当に悔しく思いました。

今はイエスさまがどんなに素晴らしいお方でも、その方の声を生で聞き、その体に触れることは出来ないのです。実際にイエスさまにお会いし、イエスさまから直接神の国について教えていただけるのなら、これは何と素晴らしいことではないでしょうか。

ですから、イエスさまより前に生まれていた預言者たち、アブラハムも「わたしの日を見るのを楽しみにしていた。(そして、それを見て、喜んだのである)」(ヨハネ8:56)と言うのです。

天地万物の支配者であられるお方が、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる」と言われたのです。確かに今は肉体を持っておられないので、私たちはそのお方を肉眼で見る事も、この手で触れる事も出来ません。でも、アブラハムがそのお方を見て、喜んだように、私たちも心の目を開いて、そのお方を見るならば、私たちの心は多いに喜びに満ち溢れるのです。

天地万物の造り主なる主が、私たちと共におられると言われます。凄いことではないですか?

問題は、私たちがそれに気付いているか、またはいないかです。意外と人は鈍いもので、いなくなって初めてその人の存在の尊さに気付いたりするものです。すぐそばに素晴らしい人物がいても気付かないことがあるのです。ましてや神さまがどんなに素晴らしお方でも、目に見えなければ、私達はなかなか気付けません。

聖書は人間の持つ「罪」が、神さまを見る目を盲目にしてしまっていると言います。罪を清めていただいて、本当に素晴らしい、凄いお方が私たちと共にいることにまず気付かせていただきましょう。

 

ポイント2 主は何をして下さっているのでしょうか? (29節)

続いて、私たちと共にいて下さるお方に気付き、このお方と出会う、とはどういうことなのかを見てみたいと思います。

このお方は、私たちの所に来て下さった。そして後に、33節後半「それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と言われます。何しに来られたのでしょうか?

イエスさまがこの地上に来られた理由をイエスさまはこう述べています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)、そしてパウロはテモテへの手紙で、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」(1テモテ1:15)と言っております。

そして救いのために十字架にかかり、人の罪の償いの供え物となりました。十字架の上で確かにしなれたのです。そのイエスさまは三日目に復活し神のもとへ帰られました。そのことで、神の御許へいく道を開いて下さったのです。

このイエスさまが今私たちのために成して下さっていることは、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)と、あるように、私たちのために取り成してくださっているのです。

昨日、結婚式の後の披露宴で、花嫁さんが自分を育ててくれたお父さんに手紙を書き、それを読んでくれました。その内容に、思わず感動して涙を流してしまいそうでした。その中で私の心に響いてきたことは、この花嫁さんのお父さんは、娘さんから反抗されても、常に娘さんのために心を砕き、時間を割いた、ということです。親の子に対する愛。今までもわかっていたのでしょうが、手紙の中では「今になってよくわかるようになった」と言っておりましたが、与えられた愛に気付き、応答する姿。この姿に大きな感動を覚えました。

私たちために、命を捨てて、私たちを罪の縄目から解放して下さった父なる神の愛。私たちの必要を常に満たし、必要な助けを与え、進むべき道を示し続けて下さった神さま。この父の愛に私たちが応えるならば、そこに本当に大きな喜びが生まれ、感動が生まれ、信仰が生きて力を発揮するようになるのです。

天の父なる神さまのもとに帰られたイエスさまは、私たちが常に力強く生きることが出来るように、私たちのために取り成し手として支えて下さっているのです。

私たちを本当に愛して、支えて下さっている方の所に行き、その愛を受ける。その時私達はなんともいえない幸福を得るのではないでしょうか。主の愛に応えて行きましょう。

 

ポイント3 主と共に幸いな時間を過ごすコツは? (35,36節)

イエスさまを捕らえに行った下役たち。彼らはイエスさまの言葉を聞きます。そしてユダヤ人もともにその言葉に悩まされます。主のいる所を見つけることも、行くことも出来ない、とは一体どういう所なのか?彼らには検討もつかなかったのです。

聖書に精通しているはずのユダヤ人なのに、イエスさまの言葉の意味がわかりませんでした。なぜでしょうか?それは、彼らはあまりにも現実の問題に翻弄されていて、現実しか見ることが出来なくなっていたからです。

ユダヤ人の考え方を見るならば、彼らは現実の社会問題に対してはかなり敏感であったのではないかと思わされます。しかし、イエスさまの語る、永遠の世界については全く鈍感だったのです。

やっぱり一緒に過ごす人がどうしても意思の疎通が出来ないと、その時間がとても窮屈な、肩の凝る時間になってしまいますよね。

結婚式がありましたから、その話題にどうしてもなってしまうのですが、結婚したからこれからは二人でお互いを見つめ合いながら過ごせば良いかというと、以外とそうではないのです。お互いしか見つめ合っていないなら、おそらくこの二人はお互いの粗をみつけては責め合うような、そんな夫婦関係を築いてしまうでしょう。二人が仲良く歩めるためには、お互いを見つめ合いつつも、共通の目標を見つめていないとならないのです。

イエスさまが私たちの所に来て下さった。そして私たちのために全てを捨てて尽くして下さいました。何のためでしょうか?それは永遠の世界を共に過ごすためです。永遠の世界を過ごすためです。今を最善にし、豊かな恵みに満たして下さるのも、やがてくる永遠の世界を、イエスさまと共に過ごすためにあるのです。

このイエスさまの目的を忘れてしまったら、私達はイエスさまを都合の良いご利益宗教の神々と一緒にしてしまいます。でもイエスさまには人格がある。私たちとの交わりを求めておられるお方です。だから、このお方と、永遠の世界を見つめながらお互いの交わりを深めていくならば、私達は本当に幸せな、幸福な人生を送ることができ、そしてやがては神の国において神さまと永遠の世界を楽しむことが出来るのです。

 

 自分の欲を優先したい。自分の道を進んで行きたい。これが自然に私たちが持つ願いでしょう。でも、ここで主が共にいて下さっていることを覚え、自分の欲を十字架につけ、主の愛に満たされて歩める者とさせていただきましょう。そのためにも、私たちの見つめる先は常に「永遠の世界」としましょう。

 永遠の世界。ここに主はおられるのです。