喬木教会礼拝説教
2003年10月19日(日)
渇いている人は飲みなさい <ヨハネ 7章37〜39節>
◆生きた水の流れ
37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだ降っていなかったからである。
先日実家に帰った時に、妹より「これは絶対面白いから読みな」と言って、マンガを渡されました。興味もなかったし、それが20巻以上あるというので、その量からしても、とても読む気にはなれませんでした。でも、何回も勧められるので、読み始めました。
その中の登場人物が「自分たちははじかれ者だ。だから皆が安心して集えるベスト・プレイスを作ろう」と言っておりました。その人物を中心に集る人々は、「自分は何をしたいのかわからない」と言っていました。
自分の居るべき場所、成すべき事、これらがわからないと、私達は生きていても虚しさを覚えるばかりになってしまうのかも知れません。もし私たちが成すべきことを知り、さらに周りの人々の虚しい思いまで満たすことが出来るようになったら、良いと思いませんか?
今日読んだ聖書箇所には、私たち全ての人に語れたメッセージでしょうが、特に虚しさの中をさ迷う人々に対して、特に響いてくるメッセージが込められていたと思うのです。
ポイント1 渇いていることを知る (37節)
日本人の文化は「恥の文化」だと言われております。恥をかくことなく生きていれば、立派だと思われるのです。また、「常識」と言われる範囲内で、人に嫌な思いをさせることなく過ごせればそれでよい、他人に迷惑をかけないで生きていければそれで良い、とも言われたりします。確かに、恥をかかず、常識的に、他人に迷惑をかけないで生きていけたら、差しさわりのない生涯を送ることが出来るでしょう。
でも、それで満足ですか?あまりにも理性が働きすぎると、「満足かどうかは問題ではない。やるべきことをやっているかどうかだ」と考えるかも知れませんね。では、なぜ「やるべきこと」があるのでしょう?
もし私たちが偶然に存在し、偶然に生きているような存在なら、偶然成り立った社会ですので、偶然を積み重ねて、やる時もあればやらない時もある。好きなように生きれば良い。となるのではないでしょうか。
でもそうならない。なぜか全ての人には「良心」と呼ばれるものがあり、全人類に共通した考え方があるわけです。これを偶然と考えて、その確立を計算したら、通常は不可能と言うほどの0に近いパーセントになるようです。ですから、私たちの存在は決して偶然ではないのですね。
聖書は私たちの存在を、神の計画のもとに造ったものとしています。そして人間の歩むべき道を示しているのです。その聖書が私たちに何を要求しているかというと、「喜びなさい」、「楽しみなさい」であります。
ある方がこう言っておりました。「ブルースは悲哀、ロックは反抗、ゴスペルは希望だ」と。その時代時代で流行る音楽が違いますよね。人種や国によっても違います。日本では最近はゴスペルが非常に流行しております。でも根底にあるのは演歌ですね。この「演歌」、もともとは「怨みの歌」という意味だそうですよ。
私達がいくら人の目を気にして恥ずかしくないように生きようとしても、そこには怨みの歌しか生まれてこないのです。だから満足なんてするはずがない。いや、しようとも思わないのです。逆に満足することに罪悪感を覚えたりする方もあるくらいです。
でも、聖書は喜びなさいと言う。喜ぶ。それは心からの平安です。この喜びを持っていますか?
おそらく、私達は世間体を気にする、または自分のプライドを気にしているがゆえに、なかなか本当の自分の姿を知ることが出来ないと思います。本当は渇いている。喜びを、平安を求めている、なのに渇きを訴えたら恥ずかしい、自分はそんな弱い人間ではないはずだ、と思い、素直になれなかったりするのです。
自分の心に素直に聞いて見ましょう。自分は喜びを持っているのか。本当に平安なのか。と。
イエスさまは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言われました。もし自分が渇いていると思うなら、イエスさまのもとに行けば良いのです。そうしたら飲ませてくれます。飲むことによって潤され、渇きが癒されるのです。
イエスさまは来て、飲めと言われた。まさにこのメッセージを伝えるために、人々から恨みを買うであろうお祭りにわざわざ足を運んだのです。自分を捨ててまで、私たちにこのメッセージを伝えたいと願ったのです。
主の前に出て告白しましょう。「主よ、私は渇いています。どうか生きる水を飲ませて下さい。私を潤して下さい」と。
ポイント2 まず自分が満たされよう (38節)
「生きた水」ってどのような水のことを差すのでしょうか。それは流れのある水です。
水も留まっていると腐ります。何日間も置きっぱなしにされたグラスの水は飲むことが出来ないですよね。
でも生きた水は清水のようです。流れがあるので、腐る暇がありません。絶えず新しい水が入ってくるのです。だから中身はいつも新鮮なのです。
私たち人間はどうしても安住を求めますよね。「チーズはどこへ消えた」ではありませんが、一つ素晴らしい経験をすると、どうしてもそこに留まっていたくなるのです。でも、そこに留まるとどうなるのでしょうか?留まって腐るのは水だけでしょうか?私たちの経験も同じなのです。
先日の分区婦人修養会での講師は、私達は「Open(開く)
Heart(心), Open mind(考え方、思い), Open Church(教会)」である必要があると言っておられました。
イエスさまは私たちに生きた水を飲ませて下さいます。水を飲んだ私達はどうするべきでしょうか?もしそれを留めておいたら、やはり腐ってしまいます。心を開き、その水を溢れ流していくべきなのです。流して出してしまったら、また私たちが渇いてしまうと思うかも知れません。でも、イエスさまはこうおっしゃったのです。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。
イエスさまを信じるならば、私たちのうちから生きた水が川となって流れ出る、要するに私たちが泉の源泉になるのです。
神さまは私たち人間を造りました。どのように造られたのか。ロボットのようではありません。もしロボットならば、「お前の内に生きた水の源泉を与えよう。これで水を川として注ぎ出せ」とインプットするなら、私達はそのようになるのです。
ところが神さまは、私たちに自由意志を与えて造られたのです。それは、私たちの決断を非常に重んじるということです。神さまが無理やり私たちの所に来て、心をこじ開け、源泉を置いていく、ということはないのです。
私達は自分の意思で、「神さま、あなたに心を開きます。源泉として下さい。私から生きた水が流れ出るように、私を満たして下さい」と決断し、告白しなければならないのです。
私たちの意志で心を開きましょう。そしてまず、生きた水で私たちの内を満たして頂きましょう。
ポイント3 他人をも満たす者になろう (38節)
よく考えてみると、世の中は他人を喜ばせよう、他人を満たそう、他人を幸せにしよう、そういう働きが非常に活発だと思います。CMやチラシを見ると、「これさえ手に入れれば、あなたの人生は、生活は変わります!!これであなたは幸せになります!!」と言っているようです。お店に行くと、「あなたが満足できるようサービスを常に考え、実行しております!!」と言われているようです。
あるお店に行きましたところ、「あなたの声を聞かせて下さい」と言ってアンケートのようにお客さんの意見を求めるボックスが置いてあって、どんな意見があったのか公表しているお店もありますね。一生懸命お客様の満足を求めて研究し、努力しているのです。でも、その公表されていた意見は、こんなコーナーを作れ、あれを売れ。あの店員は良くない、目つきが悪い、気分が悪くなる等々。
世の中は人を喜ばせ、満足させようと一生懸命なのです。でも、全体的に見てみると、一つの要求に達すると、また別の要求が出てきてその要求を満たそうと励む。それを達成すればまた別の要求...キリが無いようですね。まぁそれが需要と供給となって経済効果に良いのかも知れませんが...
商品で他人を満たそうとすることはまた別の話になりますが、私たちが自分の隣人を満たそうとする時、どうすれば良いのでしょうか?
聖書の詩編の一編には、流れのほとりに植えられた木は時が来れば豊かな実を結ぶ、とありますけど、なぜその木は実を結べるのでしょうか?流れのほとりに植えられているからです。なぜ流れのほとりだと実を結ぶのですか?必要な栄養があるからですよね。
私達には喜びが必要なのです。でなければ聖書も繰り返し繰り返し「喜び、喜べ」とは言わないでしょう。この喜びがある時に実を結ぶのです。そしてイエスさまのもとに行く人には生きた水が川となって流れ出す、と約束されているのですから、私たちに与えられた水は大きな喜び、平安です。この喜びに自分が満たされれば私たちの周りの人も満たされるのです。
最近子育ての本を読んだのですが、子どもとはこのように接すれば、子どもは健全に育っていく、みたいに書かれておりました。それを読みながら、確かにその通りだろうなぁと思いました。子どもが周りで騒いでパニックになっていても、子どもの成長を考えてこのように言えば良い、という具合です。そしてそれが次世代の地球を平和にするのだ、と。
でもそれをするためには、まず親がしっかりと大人になっていなければならないのです。つきつめていくとどういうことでしょうか?
私たちが罪に対する清算をしっかりとして、本当の平安を心に持って生きているなら、この平安が周りの人にも伝染し、喜びに満ち溢れた国が生まれるということですよ。
私たちの存在が、誰か他の飢え乾いた方を潤す存在となれたら幸いではないですか。イエスさまは私たちをそのような存在にすると言われたのです。私たちから川が流れ出すのですから。何が出来なくても良い、イエスさまの所に行き、この水に満たされ、他をも潤す者とさせていただきましょう。