喬木教会礼拝説教
2003年10月26日(日)

御言葉で分裂        <ヨハネ 7章4044節>

◆群衆の間に対立が生じる

40 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。

 

神の言葉、御言葉には力があります。時に人を癒し、慰め、励まし、一つにします。しかし同時に、この御言葉が人を傷つけ、落ち込ませ、分裂をもたらすこともあるのです。聖書の御言葉がどうして正反対の結果を生み出すのか。どうしたら御言葉を自分の力として受け取ることが出来るのかを知りたいと思います。

 

ポイント1 神の権威を知る

イエスさまの言葉を聞いて、「これは預言者だ!!」と言う人と、「この人はメシアだ!!」と言う人がいました。「預言者」という存在はかつての歴史の中で何人もいましたので、その中の一人としてみるわけです。そして「メシア」という存在は、未だかつて現れたことのない、唯一の存在です。このメシアが来た時、自分たちが救われ、イスラエル、そして世界を治める王が登場したことになるのです。

両者とも、人々にとっては神から遣わされて来た重要な存在なのであります。

逆にイエスさまを「メシア」と認めない人々もいました。その理由は、「聖書にメシアはベツレヘムから出る」(ミカ書5:1)と書いてあるから、というものでした。

そしてもう一組、イエスさまをただの狂人、反乱者とみなし、捕らえようとする者もいました。彼らは、自分たちの聖書理解と、イエスさまの聖書理解の違いを見ては腹を立て、捕らえようとしていたのでしょう。

様々な人が出てきました。人それぞれ感じ方、捕らえ方が違うわけですが、今日の登場人物たちには共通した点が一つありました。それは何かというと、聖書を考え方の根底においている、という点であります。

聖書は世界のベスト・セラーと言われております。日本においても、聖書を持っていると言う方は非常に多いのです。「聖書」というと、何か神聖な響きもあります。また、「聖書」は英語で「バイブル」と言いますが、一般的にも「〜のバイブル」と言われたり、世に対しても大きな影響を及ぼしております。

でも、聖書を生きる指針にする、という人はそんなに多くありません。なぜでしょうか?

聖書がはっきりと語っているのは、まず神がいて、私たちを造り、私たちを神が生かしている。神が全てを支配している、ということです。まず「神がいる!!」このことです。

日本においては「進化論」が普通のこと。一般的なこと。真理を示す科学として信じられております。進化論は科学ですか?違いますね。最近は科学者が進化論は科学ではなく宗教だと言っているようです。

その宗教である進化論は何を教えているのかというと、世界は偶然によって成り立ち、弱肉強食で弱いものは滅び化石になり、強いものは進化して生き残った、という教えです。それは人間が絶対的な主権者として君臨する世界があります。

でも、聖書は「進化」を一切言いません。全て「創造」、造られたと言います。そして主権者は人間ではなく、唯一絶対、この天地万物を造られ、全てを支配しておられる「神」である、と言います。日本にもたくさんの神がいるので、「神」というと誤解する方も多いのですが、全てのものの「創造主」、人間が作った神ではなく、人間を造った「神」のことです。

一つの家庭に、親を親と認めない子がいたらどうでしょう、その家庭は幸せでしょうか?親が子に親を敬うことを教えなかったら、その子は立派に成長するのでしょうか?子が親と正しい関係を築くとき、その家庭には幸せがあり、その子も普通に成長出来ます。

私たちを造り、私たちの親となっている創造主なる神、このお方と正しい関係を築けず、このお方を親と認められないならば、私達は心の根底を埋めることが出来ません。常に虚しさが付きまとう、ということです。

まず神さまの権威を知る。そうする時、私たちの心は素直になり、親の言うことの真意を受け取ることが出来るようになります。

聖書の言葉が、権威ある神の言葉であることを知る時、聖書の言葉が正しく私たちの内に響いてきます。

 

ポイント2 自分を知る

聖書の言葉で分裂をした人々でしたが、聖書の言葉を、神の権威のもとに聞くことがまず重要なことでした。続いて気を付けることは、私たち自身を知ることであります。

私たちが自分を知る時、大きく分けて三つの間違いを犯していることがあります。

 

1つ目。自分は大丈夫と思う。

神の権威を認めていても、自分は大丈夫と思う人は聖書に助けを求めません。逆に、神の権威用いるのは虎の威を借る狐みたいに思って、自分の力でがんばろうとするのです。

ですから、自分に自信があるんですね。自信というよりか自尊心かも知れません。何かに頼る自分を自分が赦せないという感じです。頼ることが負けることのように捕らえてしまうのです。

そうなると、聖書の言葉は歴史を知る上の書物となり、自分の人生には全く意味がなくなります。

 

2つ目。自分は駄目だと思う。

神さまの権威を認めてしまうと、神の前にこんな自分は駄目だ...と落ち込んでしまうのです。どこを読んでも聖書は自分の弱さ、足りなさを責めている、と感じてしまいます。これは真面目な人が多いですよね。

神さまが、イエスさまの十字架にって私たちの罪を赦して下さる、そのことを理屈として知っているのですが、「でも自分の罪までは無理」と思います。そしてこんな自分は天国に入る価値なしと思い、聖書の言葉は全て自分を裁くものになるのです。

そうなると聖書は非常に恐ろしい書物ですね。

 

3つ目。自分が神を利用出来ると思う。

世間には「お守り」と言う物がありますが、持っているだけでご利益がある、という物です。それでありがたいものだから、という理由で聖書を持つんですね。それとなく聖書のメッセージを受け取ります。

そして「神さまは最終的には皆救って下さるのだろう」と思う。または「全て良くして下さるのだろう」と努力を惜しむのです。

これは自分を知ろうとしない態度なのです。人間がどこから来て何処に行くのか、関係ないのです。今が良ければ良い、という態度になるのです。

聖書の言葉も都合の良い所だけを適当に頂こう、ということになります。

 

聖書には励まされる言葉、叱咤激励される言葉、勇気を与えられる言葉、色々あります。人によっては自分の主張を押し通すために利用しますし、人によっては聖書の言葉で自分の持てる以上の力を発揮することもあります。

聖書の言葉は非常に不思議なものでして、私たちの背丈に応じた力を発揮してくれるのです。私たちが自分を正しく理解し、自分の身丈に合う形で聖書を開くならば、この御言葉が自分の生活に当てはまり、御言葉によって力を受け、慰めを受け、道を見出すようになるのです。

 

ポイント3 歩む方向を定める

神の権威を知る。自分を知る。その時に初めて聖書の用い方がわかってきます。例えば、会堂横の和室にDVDとビデオテープ一体型のプレイヤーを購入しましたが、この使い方が分からない時、説明書を見ますよね。この時に、ある程度ビデオ・デッキの使い方を知っていれば必要な部分だけ見ればわかるわけです。知らないと、最初からボタンの名称やら機能やらまで見ていかなければならないですね。さらに知らない人は、テレビの説明書を持って来て、DVDの再生方法を探してしまうかも知れません。

聖書は英語で「Bible」と言いますが、この頭文字をとって、ある方がこう言いました。「Basic Instruction of Before Leaving the Earth」。私たちにとって、この地上を去る前の基本説明書、という意味です。またある方は聖書を「人間マニュアル」と言いました。

見渡す限り海、又は砂漠。そんな所を旅する時には何か目印になるもの必要ですよね。だから昔の人は星を頼りにしたりしました。それから羅針盤が出来て、今はコンパスと言って、どこにいても方向を正しく指してくれる物があるわけです。これで人は旅することが出来るようになったんですよね。この旅で文明は開かれていくわけです。

私たちが創造主であり、全てを支配しておられるお方を正しく知り、自分がどういう存在であるのかを知り、その上で人生の羅針盤とも言うべき聖書を知るならば、私達は決して道に迷うことがなくなるのです。

教会では「幸いな人」という、個人で聖書を通して神さまに祈るための冊子を配っておりますが、この冊子に証しが載っていますね。毎日。この聖書箇所を通してどんな体験があったのか、という証しです。毎日違う方の証しが載っているのですが、これを通して思わされることは、本当に神さまは生きておられ、様々な形で私たちの人生に介入して下さっているということです。そして、その人たちが何か偶然といえるような奇跡でどうこうした、というのではなく、聖書の御言葉によって示された通りに行ったら、このように道が開けた、と言うのです。

永遠を支配するお方が、今の私たちに最善の道を、聖書を通して教えて下さるのです。こんな素晴らしいことを私達は経験できるのです。御言葉によって方向を示していただきながら歩みましょう。

 

聖書は、人によってはただの書物です。この書物を神の権威や自分の立場を無視して解釈していくと、この御言葉で分裂が生じるのです。

でも、神さまの素晴らしさを知り、この素晴らしいお方に愛されているのが自分であることを知り、この聖書によって自分の歩むべき道が教えられることを知るならば、聖書は非常に有益な、またなくてはならない私たちの重要な書物になります。

御言葉により、励まされ、勇気を頂き、力に満たされ、喜びを頂いて歩んで参りましょう。