喬木教会礼拝説教
2003年11月2日(日)
ガリラヤ出身 <ヨハネ 7章45〜52節>
◆ユダヤ人指導者たちの不信仰
45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。48 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
ポイント1 世のに惑わされないように(47)
下役はイエスさまを捕らえるために遣わされました。ところが、彼らはイエスさまを捕らえもせずに帰って来ました。その理由を問われた時にこう答えました。「今まで、あの人のように話した人はいません」。
これは理由にならない言い訳であるような気がしますね。でも、イエスさまの以前言われた言葉が響いてくるようです。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」(ヨハネ7:17)。また後には「神に属する者は神の言葉を聞く」(同8:47)と言っております。
下役たちは純粋に神の存在をイエスさまの内に感じ、このお方に手をかけることが出来なくなったのでしょう。でも、それに対してファリサイ派の人々は何と言ったのでしょう。「お前たちまでも惑わされたのか。48 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と。
ファリサイ派は当時の常識と思われる思想を作り出していた人たちです。この人々は、常識として、「ナザレのイエスはただの人であるから惑わされるな」という空気を作り出し、人々に信じさせていました。
これは現代でも同じかも知れません。「教会」、「イエス・キリスト」、「信仰」、それらは「弱い人の信じる者」と思わせ、本当の自由に対して人々の目を盲目にしてしまうのです。そして偽りの自由、社会に漂う思想を信じること、行うことこそが本当の自由である、と思わせます。
本当の自由とは何でしょう?何ものにも縛られず、自分の思い通りに生きていくことでしょうか?そうではないでしょう。自分で自分の責任を負える範囲内で、自分の選択権を用いることが自由ではないでしょうか。
世の思想、流れ、それらはことごとく聖書の示す方向とは違うところに私たちを導こうとします。普段ファリサイ派に仕える下役でさえ、素直にイエスさまの言葉を聞けばそこに神の存在を感じ、イエスさまの言葉を聞くのです。私たちも世の権威に惑わされることなく、御言葉に聞く者とさせていただきましょう。
ポイント2 主の前に謙遜になり重荷を降ろそう(48,49)
ファリサイ派の言葉はどうでしょう。「48 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」この言葉を見る時に、実に傲慢な言葉だ、と思わないでしょうか。事実、傲慢な者の姿として描かれているように思えます。でも、この言葉は私たちが何気ない時に口にしてしまう、又は心の中に思ってしまう言葉と同じではないでしょうか。
「毎朝聖書を読んで祈る?そんな時間があったら家のことも出来るし、仕事も出来る。何でもかんでも信仰とか、神さまとか言ったりするから『弱い人が信仰を求める』とか思われてしまうのだ」。という言葉と同じなのです。
私達は一般的にも「傲慢」とか「高慢ちき」とかいう言葉を使いますが、「傲慢」とはどのような姿だと思いますか?自分を絶対にして他人を見下すこと、高慢になって礼を失すること、ここらへんが一般の傲慢な者の態度、理解だと思います。確かにそれらは傲慢です。
そして聖書でいう傲慢にはさらに言葉が加わりますね。傲慢、それは神さまに対しての態度として用いられるのです。だから、自分を絶対にして神さまを見下す。自分が主になって神さまに対する礼を失する。そんな感じです。
それは具体的にどのような態度になるのかというと、神さまにいちいちお伺いを立てなくても、自分の知識や教養、経験があれば、ある程度のことはさばける、出来る。と考えてしまうことです。そのため、日々聖書に聞く必要が感じられないのです。自分を優先するんですね。そして聖書と現実で完全に線を引き、私生活にまで聖書を持ってくるな!!となってしまう...これがこのファリサイ派と同じ態度なのです。
自分を絶対とするとどうなるのでしょう?全て自分の責任のもとに行うことになります。言い逃れが出来ません。全ての過ち、罪とが、実際に行動に出なくても、頭の中で考えた過ちまでも責任を問われてくるのです。その時に、その責任を全て背負わなければならない、ということです。背負い切れるのでしょうか?
本来私達は、その責任を背負い、苦しみながら歩まなければならない存在でした。でも、そんな私たちにイエスさまは、「重荷を負っているね。自分の重荷を降ろしたいと思うなら、私の所に来なさい。休ませてあげるよ」そう語りかけて下さいました。
重荷を降ろすために、私たちがしなければならないことは、謙遜にイエスさまの言葉に聞き従うことです。そうしたら、イエスさまは私たちの責任、重荷、全てを降ろして下さり、私たちが背負うべき責任を全て代わりに背負って下さるのです。
だから、日々このお方の前に、謙遜に出て、日々御言葉を頂き、身を軽くして頂きましょう。
ポイント3 謙遜を身につけよう(52)
「謙遜」というものは非常に素晴らしいものですよね。謙遜な方とはいつまででも一緒にいれますね。でも、自分を大きくして、見得を張ったり、威張ったりする人とはあまり一緒にいたくない。
私たちが謙遜になるためにはどうなれば良いのでしょうか?
内側を整えていただくしかないのです。外側だけ装ってみても疲れるだけなのです。外側だけ謙遜を装って、神さまに仕えても、出てくるのは不平不満、または失望、落胆ですね。御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、忍耐、誠実、柔和、節制)ではないのです。
その内面を整えていただくために、神さまは様々な苦しみを私たち与えて下さいます。この苦しみから忍耐が生じ、忍耐が練達を、練達は希望を生み出します。そしてこの希望は私たちを裏切りません(ローマ5:3~5)。また、この苦しみから忍耐を学び、整えられるなら、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところの無い人になります」(ヤコブ1:3)と言われ、さらにその人は「命の冠をいただく」(同1:12)と言われるのです。
だから、内面を整えて頂くのはそう簡単なことではないでしょう。とことん自分の欲、自我を十字架につけ、本当の自分の姿と向き合っていかなければならないのですから。
その完全な模範、モデルとなられたのがイエスさまです。イエスさまは神であったのに、その位を捨て、自分を無にし、人間と同じ姿になって下さいました(フィリピ2:6-8)。さらに、人間の中でも一番低い所、馬小屋で生まれ、ワラの上に寝かせられ、大工の子として育ちました。公の生涯に出ても枕する所もなかったのです。
ファリサイ人がニコデモに対して、「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と言っておりますが、イエスさまはベツレヘムで生まれ、まさに聖書のメシア預言とぴったり合っているのに、ガリラヤの出身となられたのです。
ガリラヤとはイスラエルの北の方にありますが、とても貧しい地域だったと言われます。貧しいので教育も行き届いていません。あまりにも貧しく、粗野なので、この地方からよく謀反が起ったと言われています。
ファリサイ人が「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。」と言うその言葉には、「お前も馬鹿だな。聖書をよく調べてみろ」という意味が込められているのです。
神であられたお方が人間から馬鹿扱いされる。そして最終的に罪人である人間から神さまであるキリストが裁かれて十字架につけられてしまうのです。
このお方が本当の従順を教えて下さいました。その結果私たちに、十字架を信じることで「罪が赦される」という恵みがもたらされたのです。イエスさまはこの素晴らしい恵みをもって、私たちに「謙遜の歩み」へと招いておられます。イエスさまが歩まれた道を歩みましょう。