喬木教会礼拝説教
2003年11月9日(日)
罪のない者が石を投げよ <ヨハネ 7章53〜8章11節>
◆わたしもあなたを罪に定めない
53 〔人々はおのおの家へ帰って行った。1 イエスはオリーブ山へ行かれた。2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
ポイント1 主にお伺いを立てよう(5)
イエスさまがいる所には、いつも多くの人が集まって来ます。それだけ魅力的な存在だったのでしょう。
人気がありますので、嫉妬する人々もいたのです。それが3節に登場します。律法学者たちと、ファリサイ派の人々です。彼らは宗教家で、民に聖書の教えを説く人々でした。ですから、彼らの意識としては、「聖書の本当の教えを知っている私たちをそっちのけで、新参者のイエスの所に人が集まるのはけしからん!!」という感じでしょう。そこで、何とかしてイエスさまを陥れようとしていたのです。
ある時、彼らに絶好のチャンスがやってきました。姦淫の罪を犯している女を発見したのです!!姦淫というのは何でしょう?詳しくは記されていませんが、浮気なのか、不倫なのか?とにかくその罪を犯した者をどうするのか、聖書にはこのように書いてあります。
「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」(レビ記20:10)、「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さなければならない。」(申命記22:23,24)
律法では、婚約している女性のことを石打の刑だと言うのですが、どちらにしても死刑は確実のようです。
宗教家は、姦淫を犯した女性を連れて来て(男性は何処に行ったのでしょう?)、石で打ち殺すというのが律法だが、あなたはどう思うか、とイエスさまに聞いたのです。
これがなぜ陥れる絶好のチャンスなのでしょうか?
イエスさまはずっと「愛」を語ってきました。罪人を招くために来たと言い、赦しを述べて来たのです。ですから、今までのイエスさまの主張を同じように通すなら、姦淫の女も「赦す」ことになります。ただし、赦すならば律法を無視する!!と公言することになり、イエスさまの信頼はがた落ちでしょう。
逆に、律法に従って彼女を裁きなさい(死刑にしなさい)、と言うのなら、今までの主張が全て嘘になります。やはりイエスさまは大嘘つきとなり、その評判はがた落ちになります。
つまり、どのように答えても宗教家たちの思惑通りに事が運ぶような、そんな質問を彼らは作り出すことが出来たのです。
さて、普通に見れば反面教師になるような宗教家の態度ですが、彼らの行動を一つ、私達は見習いたいと思います。何を見習うのでしょうか?
彼らはイエスさまを陥れるために質問をしました。でも、実際にその女性をどのように裁くべきなのか、本当の所は宗教家でも分からなかったのではないでしょうか?なぜなら当時のイスラエルはローマ帝国が支配していて、ローマの法律で裁かれなければならなかったのです。イエスさまを十字架につけようとした時も、ユダヤ人は自分たちには人を死刑にする権限を持っていないから!!とローマに死刑判決を求めています。
だから、彼らも姦淫の罪をどのように裁くべきなのかわからなかったのです。
ここに見習うべきところがあります。
動機がどうであれ、自分たちがどうするべきなのか、彼らはイエスさまに尋ねたのです。イエスさまに尋ねる。この点を見習いたいと思います。
自分の日常生活の中でも、事ある毎にイエスさまに尋ねる。「主よ、〜しても良いですか?」、「主よ、〜しなくて良いですか?」、「主よ、どうすれば良いでしょう?」と。
何でも主に聞く。幼子のように主に尋ねもとめる習慣をつけましょう。
ポイント2 主の言葉を黙想しよう(7)
幼子のように、何でも主なるイエスさまに尋ねる。答えが聞き取れない。わからないという時は、かがみ込んで地面に何かを書いているイエスさまに、宗教家たちが激しく迫って行ったように、なおしつこく聞き続けるのです。「主よ、あなたはどう思うのですか?どうすれば良いのですか?」と。
するとイエスさまは答えて下さいます。宗教家たちにさえ答えて下さったのですから、当然私たちにも答えを下さるのです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
イエスさまの答えを頂いた時、私達はどうするべきでしょうか?宗教家たちは、「石を投げなさい」という言葉を聞いて、「これでイエスの評判はがた落ちだ!!」と思ったでしょう。でもすぐにその前の言葉が気になります。「え?罪を犯したことのない者が?」と。彼らはその言葉の意味を考えなければならなくなりました。
イエスさまの言葉は今から約2,000年も前に語られた言葉です。しかも、イスラエルの国の、イスラエル人の文化の中で、イスラエル人に対して語られている言葉ですね。
この言葉が、今を生きる私たちにそのまま適用することができるでしょうか?できない。もし、今私たちが姦淫の罪を犯した人を石打の刑にしろ、と言われても出来ないし、投げつける石も持っていない。
これをどうするべきなのか、私達はなお主に尋ねなければなりません。「主よ、その言葉は2千年前の、あなたがいた、その状況の中で語られた言葉ですよね。でも、今も私に語りかけてくださっている。それなら、私はそれをどのように解釈すれば良いのでしょうか?」と。
聖書の御言葉を私たちの内で反芻させます。その言葉をしっかり味わうようにしたいのです。御言葉を私たちの内で反芻させること、それを別の言い方で言えば黙想する、静かに思いを巡らせる、ということかも知れません。
幼い子は、親から言われた通りのことを行います。それ以上のことを要求もされません。しかし、成長すると、誰か人が語ったその言葉にはどのような意味があるのか、本当は何を求めているのか等、一つのことを言われたら、それ以上の行動を起こしたいと思うようになるのです。
イエスさまは聖書の言葉を通して、今日の私たちに語りかけておられます。この語りかけは、そのまま読めば2千年前の、小さな地方の片隅で起った、ごく限られた人に向けられた言葉でしかありません。
聖書の言葉を深く黙想し、神の言葉に思いを巡らすのなら、この言葉は私たちを生かす霊の糧となって、私たちの人生を非常に豊かなものにするでしょう。
ポイント3 主の御言葉には従順に(11)
そこで、最後に最終的なイエスさまの判決を聞きたいと思います。11節。イエスさまはこう言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
イエスさまにお伺いを立てます。事ある度にどうするべきか尋ねます。そうしたらイエスさまは御言葉を通して教えてくれますね。その御言葉を私達はどおするのでしょう?
返事だけして後はしらない、という態度を取るべきでしょうか?そうではないですね。
タバコを止めたいという人でも、「数日後にやめる」とか「後で」という人はタバコをやめることが出来ないそうです。止めると決めたらその場で止める。そうする人の方が止められるようですね(実際は分かりませんが)。
これは御言葉においても同じことが言えるかも知れません。聖書の御言葉を頂いた。「そうかぁ。じゃぁ、後でそうしよう」とか、「環境が整ってから」と考えると、まず御言葉を実行することは出来ないようです。
御言葉を頂いた。すぐに実行する。そうすると、神さまの側でも奇跡を起こす準備をして待っておられるので、そこで神さまの御業がなされるようです。
神さまから頂いた御言葉に対して、私達は従順に従うべきなのです。
イエスさまは、罪を犯し、人々の前に突き出され、罵られ、殺されようとしていた女性に向かって、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。イエスさまが、「私はあなたを罪に定めない」と言われたのです。この背後には、イエスさまの命をかけた、贖いの十字架があります。御子が私たちのために血を流して下さった。この十字架を信じ、受け入れる時に私たちの罪は赦されるのです。その事実のゆえに、イエスさまは「罪に定めない」と言われました。
イエスさまの言葉に従順であるならば、私達はどうなるのでしょう?私達は罪のない者とさせて頂けるのです。誰が私たちを罪に定めるのですか?死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために取り成してくださるのです(ローマ8:34)。もう私たちを罪に定め、神の愛から引き離すものは存在しないのです。
御言葉に従順する。それは「罪なし」と言われたら、自分で自分を罪に定めないこと。そして、「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」といわれているのですから、罪を犯すことなく出て行って、全ての民を主の弟子にしたいと思います (マタイ28:19)。
主に尋ね、主から成すべきことを教えて頂き、それを実行する者でありましょう。