喬木教会礼拝説教
2003年11月16日(日)

命の光を持つ           <ヨハネ 8章1220節>

◆イエスは世の光

12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。17 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。18 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」19 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 

私達の中で、どなたか出来るだけ暗く、ジメジメと行きよう!!と心がけている人はいないでしょうか?おそらく、殆どの方は明るく、楽しく、爽やかに生きていきたい、と願っているのではないでしょうか。でも、そう行かない、行けない現実の辛さも知っている、という感じではないでしょうか。

聖書は、私たちに明るく、光輝いて生きて行くことが出来る!!とその道を示してくれています。今日、私達は命を輝かせるために、御言葉を頂きたいと思います。輝かせましょう、私たちの命を。

 

ポイント1 見るものに似てしまう習性 (12)

12節でイエスさまは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」といわれました。命の光を「持つかも知れない」ではなく、「持つかな?」でもなく、「持った感じ」でもなく、「持つ!!」と宣言されたのです。神の御子が宣言して下さったのですから、これほど確かな約束はありません。

その光を持つためにはどうすれば良いのでしょうか?「わたしに従う者は」とありますよね。ですから、イエスさまに従えば良いのです。従うならば、命の光を持つ!!のです。

最近面白い本を読みました。「ユダヤ人大富豪の教え」という本です。読んだ方もおられるとは思うのですが、確かに、ここに記されていることを確実に行っていくなら、私達は大富豪になれるでしょうね。そして同様に神さまに対しても適応していくなら、信仰面においても大富豪になれるでしょう。

その中で言われていたことの一つに、「人生は、『考えること』と『行動すること』の二つで出来ている。今まで考えてきたことと、思考の結果行動してきたことの集大成が君だ」というものがありました。それは、私たちの考えていることが、私たちを造る。ですから、「人生の結果は、その人の本来の意図を表す」というのです。

心に思い浮かべること、これが重要なのです。箴言でも「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」(4:23)と言っております。心が私たちの人格を形成し、感情を造りだすのです。だから心を守ることの出来た人が本当に幸せな人なのです。

では、心をどのようにして守ればよいのでしょうか?「心を守るぞー!!」と力んでいれば良いでしょうか?まず守りに入ると現状維持から徐々に下降していくのが世の常です。ですから、私たちは「攻撃こそ最大の防御」という言葉の通り、「攻撃」、肯定的に心を守るのです。それは「主に従う」という点に集中することになります。

私たち人間は、見るものに似てくる、という習性を持っております。ペットは飼い主に似ますね。夫婦も似てくる。友達も似たような人が多くなる。同じ職種についている人は、似た雰囲気を持っている人が多い。見ている者に似てくるからなのです。

それで、私たちが完全で一つの落ち度も無く、恵みと愛に満ちたお方を常に見続けたらどうなるのでしょう?私たちもそのお方のようになるのです。

私たちの従うべきお方は何と言っておられるのでしょう。「わたしは世の光である」です。光であるお方に従って行く、見て行くのですから、私達は当然、光となってくるのです。このお方を見続けて命の光を頂きましょう。

 

ポイント2 不安を解消する (14)

先ほどの本の中で、著者がそのユダヤ人の大富豪から学ぶ中で、ある時無人島に行ったそうです。その島を探検した時、著者は今までにないくらいに大きな喜びと感謝の念が溢れてきたそうです。でも、船に帰ってみると、船がなかった。待ってくれているはずの人が誰もいない。島は無人島。ちょっと回りを見ると、血のついたシャツが落ちている。今まで喜びに満ち溢れていた心が急に不安に満たされたそうです。「猛獣が?」とか「自分は大丈夫なのか?」とか生死に関わる様々な不安が溢れてきたのです。

教会では「いつも喜んでいなさい」とか、「どんなことにも感謝しなさい」(1テサロニケ5:16~18)とか言われます。調子の良い時、順風満帆の時には喜び感謝するのも簡単でしょうが、聖書は「いつも」というのです。それは辛い時、困難にぶつかった時、最悪の事態に直面している時も含まれるのです。どうして「いつも」喜んでいることを聖書は勧めるのでしょうか?少々難しい顔をしている方が、威厳があってカッコ良い気もしないでもないですよね。でも、聖書は喜んでいることを勧めます。

その理由は、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8:10)からです。憎しみや怒りも力になるかも知れませんが、それは花火のような、一瞬の力であり、本当の力ではないのです。主を喜ぶこと、これが私たちにとって本当の力、永遠に存続し、私たちを生かし、周りの人も生かす力になるのです。

では、どうしたらいつもこの喜び、感謝に満ちていられるのでしょうか?

 

それは不安の根本を取り除くことです。自分がどこから来て、何をして、何処に行くのか。そのことを知ることでかなりの不安は解消できます。

私たちが平衡感覚を保って立っていられるのは、目の力による所が大きいですよね。そして動かぬ土台を持つものに体を付けることで、どのようにバランスを取るべきなのか瞬時に判断し、立ったり座ったりするわけです。

もし目に見える世界に何の凹凸、明暗も見出せないならどうでしょう。またよりかかるようなものもないとなおさらどうなるでしょう?立っているのか、寝ているのか、何もわからなくなります。この状態が、どこから来て、何をして、何処に行くのかがわからない状態と同じなのです。人生の指針をもてない状態です。不安定なのです。だから心にも不安が生じ安いのです。

イエスさまは、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ」と言いました。でも、この世を支配する霊は、私たちに間違った世界観を与えます。そして「永遠」に対して盲目にし、人生の平衡感覚を狂わせるのです。心が安定しようとすると、そこに不安要素をつぎ込み、決して安心し、喜びに満たされることを許さないのです。

 

イエスさまは私たちの罪のために十字架につきました。これにはどんな意味があるのでしょうか?

イエスさまは私たちが永遠の存在であることを散々語って教えて来られました。そして十字架につきます。この十字架の死によって、私たちを縛っていた罪の鎖を断ち切って下さったのです。私たちに永遠の命の希望を与えて下さいました。イエスさまの十字架によって、どこから来て、何をして、どこに行くのか、その答えを見出すことが出来るようになったのです。心の平衡感覚を得たのです。

だから、この十字架によって初めて私達は、決して覆されることのない喜びを得ることが出来るのです。不安から解消され、決して揺るがない喜び、平安を得る!!これが私たちの力の源になります。喜びに満ち溢れているならば、私たちの命は輝かないはずがありません。喜びによって輝かせましょう。

 

ポイント3 裁かれないことを知る (15)

今、イエスさまの救いを受け入れ、洗礼を受けたいと希望している青年がいます。彼は非常に真面目な人で、よく働きます。仕事を頼まれると断れないのでしょうね。ですから、朝から晩まで働きっぱなし。そして日曜の礼拝にも来ることが出来ません。そんな彼と一緒に学びをしているのですが、彼は土日も含め、夜は学ぶ時間を確保出来ません。

どうしましょう?と悩んでいる時、一つの提案をしました。「朝やるか?」と。すると彼は「よろしくお願いします!!」と言うのです。それで朝の5時から、早天礼拝ではなく、早天学び会を始めるようになりました。週に一回ですが、朝の学びを始めたのです。

それで先週も、(私も疲れていて辛かったのですが)木曜に学びの約束をしました。朝4:30に起きて準備をして待ちました。彼がなかなか来ません。いつの間にか私も寝てしまい、気が付くと6:30。彼が今起きたと連絡。で、翌日またやり直す約束を。で、朝待っていると、やはり現れず7:00に、今起きたと。

私は、真面目な彼が寝坊することが出来た、ということでちょっと安心もして、「ま、そんなこともあるよね」と気軽に捕らえていましたが、彼はとても気にしました。何度もメールで「ごめんなさい」を送ってきます。本当にこっちは気にしていないのですが、本人が気になるのですね。

返事を書く時に祈りました。「神さま、気にしなくて良い、と理解させるためにはどう答えたら良いのですか?」と。そうしたら「私の愛を教えなさい」と導かれたような気がしたので、神さまの赦し、恵みを書き送りました。

これを送ってもう一度新たに思わされました。「裁かれない」。これは何て大きな恵みなのだろう!!と。この世は私たちを裁きます。仕事が出来る、出来ない。信用出来る、出来ない。云々。

でもイエスさまは「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」といわれるのです!!

世の裁きの基準に従って自分を裁くことに慣れている私達は、神さまは裁かない、と言っているのに、どうしても裁くクセから抜けきらず、自分で自分を裁き、自分を縛るのです。

その縛り、これが十字架なのです。重たく、苦しく、自由を奪い、最後には命まで奪うものです。私たちにはとても担いきることのできないこの十字架を、イエスさまが代わりに担って下さったのです。だから私達は今、イエスさまが代わりに十字架を担って下さったことを信じて感謝すれば良いのです。

束縛から解放される。自由。ここからくる喜び。これは私たちにとってエネルギーの源です。だから私たちの魂が、命が喜ばないわけがない。命が光らないわけがないのです!!

 

命の光を持つ。これは聖書の約束です。聖書の約束に嘘偽りはありません。かならず果たされるものです。

イエスさまに従い、主だけを見つめ、主の歩む道を歩むことで不安から解放され、主の赦しの恵みを十分に頂きましょう。

私達は輝く存在なのです。