喬木教会礼拝説教
2003年11月23日(日)

御心に適う行い         <ヨハネ 8章2130節>

◆わたしの行く所にあなたたちは来ることができない

21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

 

ユダヤ人たちとの論争。何度も同じ主張を繰り返すイエスさま。物分りの悪いユダヤ人。固定概念が強いため、真理に対して目がふさがれる。

 

ポイント1 上のものに属す者 (23)

イエスさまは重要なことを示されました。23節です。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」。これはどういうことでしょう?この世には「下のもの」と「上のもの」があって、私たちがどちらかに属している、というのです。

「下のもの」に属しているとどういうことになるのでしょうか?イエスさまの言葉を続けて見てみますと、24節に、「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われております。下に属する=自分の罪の内に死ぬ、ということです。

では、「上のもの」に属するとどうなるのでしょう?そのことではっきりと示されている訳ではありませんが、「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われておりますので、「信じるならば、自分の罪の内に死ぬことはない」ということになるのではないでしょうか。

下か上か、で自分の罪のゆえに死ぬか、死なないかにわかれるというのです。皆さんはどちらに属することを選ばれるでしょうか?もちろん上に属することですよね?

それでは、上に属するためにはどうすれば良いのでしょう?その回答について、ヨハネは最初から私たちに教えてくれていました。ヨハネ福音書の1章12節です。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」という言葉です。

イエスさまは上のものに属しているお方でした。それは神の子だからでしょう。そして、そのイエスさまを信じる者にも神の子となる資格を与える、と言われたのです。それはイエスさまと同じ身分を与える、ということに他なりません。ということは、イエスさまを信じる時、私達は上のものに属することになる、ということなのです。

一昔前は、家柄というものがありました。生まれた家によって身分が決められ、能力は関係なく、その身分で一生を過ごさなければならない、というものでした。その風習が現在でも残り、差別によって苦しんでいる人がいるわけです。誰も好きこのんで差別されるような家に生まれたわけではないのです。でも、生まれてしまった。だから、生まれた時から苦しみを背負わなければならないのです。その苦しみは、他人には決して理解することの出来ないほどのものでしょう。

でも、程度の差はあれ、実は私たちも最初の人であるアダムとエバから続いて、罪の呪いを受けた血を継いでいるのです。私たちも生まれた時から、死という呪いがかけられ、女は男に支配される苦しみが、そして男には食べ物を得るための苦しみが与えられました(創世記3:16~19)。私達は生涯苦しみの中で過ごさなければならない。そして行き着く先は、「自分の罪のうちに死ぬ」ことであったのです。

これを、「運命」という言葉で片付けることも出来たでしょう。その運命を受け入れることで「諦め」、悟りを得るのも一つの道かも知れません。でも、イエスさまは私たちに別の道を示されたのです。

私達は「運命」という言葉に支配されない。私たちは運命さえも変える特権を頂いているのです。それは、罪の中に生まれ、罪によって苦しみ、罪の呪いから死ぬしかなかった私たちに、「神の子となる資格」を与えるという神さまの恵みが注がれているからなのです。

誰でも、救い主、イエス・キリストを信じるならば、死の呪いから解放され、上に属する者とさせられるのです。まず、イエスさまを信じる、そのことから頂ける恵みをしっかりと受け取りましょう。

 

ポイント2 「わたしはある」の教え (28)

上に属する者となった私たちはどのように生きるべきなのでしょうか?28節でイエスさまは、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」と言っております。

「わたしはある」とは面白い表現ですが、この表現は出エジプト記の3章14節から始まります。モーセが、召した神さまに、「人々にあなたの名前は何か、と問われた時、何と答えれば良いのですか?」と聞いた時に、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神さまが答えられたのです。

誰か人によって作られた神にではない。この世が造られる前から存在し、目には見えないけど私たちの内に住んで下さり、私たちの全てを支配しているお方。このお方は「ある」のです。

最初から「ある」お方。この世を造られたお方。全ての秩序を保っておられるお方です。このお方が、御子を通して私たちに様々なことを語られました。「ただ、父に教えられたとおりに話している」と言われる通りです。

この最初から「ある」お方は、私たちに一体何を教えようとしていたのでしょうか?その語られた内容は、今までも十分イエスさまによって語られているのですが、それは、私たちが命を持つように、神さまの愛を知るように、私たちに永遠に生きるように、ということばかりです。

父が御子を通して教えて下さった様々な教え、これを聞いた私達はどうするべきでしょうか。

主が上げられる時に初めて、主が言われていたことは本当だったと気付くのか、それとも最初から信じて、その言われたことを守るのか、その違いは非常に大きくなります。

「レフト・ビハインド」というフィクションの小説がありますが、この小説は私たちに対して大きな警告、示唆を与えていると思います。

イエスさまが来られる時、先に召された者が天に上げられ、続いて生きている者が天に挙げられる。そして雲の中でイエスさまと顔と顔を会わせる、と聖書(1テサロニケ4:15~18)には記されております。そうなった時に、「あぁ、イエスさまは本当に上に属する者ので、神から教えられたことのみを私たちに伝えていたのだ」と悟っても、もう遅いのです。

イエスさまが上げられる時、それはいつ来るかわからない。聖書は「盗人が夜やってくるように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」(1テサロニケ5:2)といわれるように、「突然、破滅が襲う」(同5:3)のです。

だから私達は、「目を覚まし、身を慎んでいましょう。〜信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(同5:6~8)。

主が教えて下さったことを守る、行う私たちとなりましょう。

 

ポイント3 主が共にいて下さる祝福 (29)

最後に覚えたいことは、「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」ということです。

イエスさまの言葉を聞き、父なる神の戒めをしっかりと守るのであれば、父なる神が「わたしと共にいてくださる」のです。モーセの召命の時もそうでしたし、ヨシュアの時も、聖書に登場する人物にはことごとくこのことが言われておりました。

最近、平野耕一先生が書いた「ヤベツの祈り」という本を読みました。この本を読む中で、神さまに対するイメージが変えられたような気がしました。

今まで、私は、神さまは祝福して下さるお方、ということは知っておりましたが、その時に「自分が相応しくなったら」という言葉をつけていたように思うのです。何となく、「こんな自分は祝福されるのに相応しくない」という思いが染み付いてしまっているのですね。

でも、相応しくなったところで神さまの祝福を受けられる、というのであれば、一体誰が神さまの祝福を受けることが出来るのでしょう?祝福の源となったアブラハムにしても、旧約に登場する一人一人、必ず欠点もあって、失敗もある。さらにその祝福は異邦人にさえも及んでおります。

神さまの祝福は、努力して相応しくなったところに与えられるのではなく、こちらが神さまを求めた時に与えられているのです。聖書を見ると、神さまを知り、その神さまと共にいることを望んだ人々が、ことごとく祝福を受けていることを私達は見ることが出来るのです。

イエスさまは、ご自身が御心に適うことを行うので、父はいつも私と共にいて下さる、と言われました。御心に適う行いをしていると、祝福して下さる神さまが共にいてくれる、というのです。

御心に適う行い、それは、私たちが、私たちを造り、生かし、そしてそれぞれの場へと遣わして下さっているお方と共にいたい、共にいようとすることなのです。それはこのお方との交わりになるでしょう。このお方が求めておられることを行うことになるでしょう。でも何よりも、このお方が共におられることで、本当に私たちが祝福されるのです。

このお方と共にいることで、大きな祝福を受けて歩みましょう。