喬木教会礼拝説教
2003年12月14日(日)
わたしはある <ヨハネ 8章48〜59節>
◆アブラハムが生まれる前から「わたしはある」
48 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、49 イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。50 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。51 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。53 わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」54 イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。55 あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。56 あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」57 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
「わたしはある」これは、神さまがモーセに教えて下さった、神さまの名前ですよね。この名前を語ったゆえに、イエスさまはよりユダヤ人より嫌われて、殺されようとしてしまうのですが、私たちにとって、このお方を知ることによってのみ得られる幸福があると思うのです。ですから、このお方を知ることによって得る、三つの幸いを覚えたいと思います。
ポイント1 父なる神の栄光を求める(50)
ユダヤ人との論争の中で、悪霊云々の話しになり、そこで主は「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。50 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」と言われました。
悪霊にとりつかれている、という話から、「わたしは自分の栄光を求めてはいない」と。何か会話がかみ合わないような気がしてしまいます。どういう意味なのでしょう?
この世には、神と言う存在がある。それと同時に、悪霊、サタンという存在もあるわけです。そもそも、サタンはどのようにして誕生したのでしょうか?現在聖書からの解釈で、神学者たちに言われていることは、サタンはもともとは天使だった、ということです。
すべてを支配し、栄光に満ち溢れた全知全能の神。その神に仕え、讃美する存在が天使でした。どうもその天使にもランクがあるようで、取りまとめ役がいたのでしょう。その一人が自分に神のような権能があると勘違いしました。そして自分に栄光を求め、神に背いたのです。この天使が地に落とされ、サタンとなったのです。
ですから、自分の栄光を求める習性、それはサタンから来ている、ということなのです。だから、イエスさまは悪霊にとりつかれている、と言われた時に、いや、私は自分の栄光を求めていない!!とその性質の違いを述べたのです。
最初の人、アダムとエバがサタンの誘惑によって、罪を犯してからというもの、この世はサタンの支配下に置かれてしまいました。そのせいでしょうか。この世は実力や能力を求め、力のある人が尊い人物である、と考えるようになったのです。そのため、BeingよりもDoingが求められ、私たちは自分の存在を認めてもらうために、自分を良く見せたい、立派なところを認めてもらいたい、そんな思いに縛られるようになりました。
主はご自身の栄光を一切求めませんでした。なぜでしょう?私たちを造り、私たちを生かす、全能の神は、親が子を喜ぶように、私たちの存在そのものを受け入れ、喜んで下さる、と知っているからなのです。
私たちがこのお方を知るならば、必要以上に背負っていた重荷、プライド、心の傷、人に認めてもらいたいと思う、そのような鎖から解放されるのです。私たちの環境は変わりませんが、本当に自由な世界が開かれます。
一つ目の幸いとして、私たちの存在そのものが受け入れられていることを覚えたいと思います。
ポイント2 死の呪いから解放される(51)
私たちの住む世界、そこはどのような世界でしょうか?平和や喜び満たされた世界でしょうか?日本もイラクに自衛隊を派遣することに決めましたが、イラクにおいては、戦争は終結したと言っても血なまぐさい事件ばかりが報じられ、未だに戦争状態と言っても良いくらいです。食べ物が有り余っているかと思えば、他の国では多くの人が飢餓の故に命を失う。日本では親が子を殺す、虐待のニュースが頻繁に流れ、地震など、自然災害に対する不安も拭えません。
誰もが平和を願い、幸せを願っているのに、それが実現しない。その原因は何でしょうか?戦争においては、キリスト教とイスラム教の宗教戦争だ、と言われたりもしていますが、宗教が原因なのでしょうか?
誰もが幸福を求めているのに、不幸が訪れる。その原因は、「罪」であると聖書は語っています。その罪は、人間の欲望に働きかけるのです。欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生むのです(ヤコブ1:15)。
だから、聖書は言います。罪の支払う報酬は死です、と。私たちはこの世の風習に流されて、人はいずれ死ぬ存在、とあきらめる節がありますが、聖書はそれを当然である、とは言っていないのです。イエスさまはなんと言ったでしょう?「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」。
「死ぬことがない」と言うのです。不思議ですが、死がなくなるようなのです。どのようにしてでしょうか?罪の支払う報酬が死であるのですから、罪に対する報酬を支払わないようにすれば良いのです。どのようにしてでしょう?
自分の罪をすべて、イエスさまに転嫁させることによってです。主は神でありました。そのお方が、人々の罪を背負うために世に来られ、実際に全ての人の罪を背負って十字架につき、私たちが支払うべきであった「死」を代わりに支払って下さったのです。イエスさまは、この身代わりの「死」を受けるために、この世に来て下さったのです。それがクリスマスの意味になるのです。
クリスマス、この時、イエスさまの誕生日を祝うと同時に、私たちが罪から解放され、永遠の命を受けていることを喜び、祝う時です。
二つ目の幸いとして、このお方を知ることによって、私たちは罪から解放され、命を受ける、そのことを覚えましょう。
ポイント3 喜びを知る(56)
アブラハムという人物は、信仰の父と呼ばれる人物です。世界の三大宗教、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、全てのもとになっている、と言っても良いくらいの人物です。このアブラハムは何を目指していたのか?それをイエスさまは、イエスさまご自身にお会いすることを目的とし、それを達成して喜んでいた、と言います。
不思議ですね。イエスさまがこの地上を歩まれた時よりも、2千年ほど前の時代に生きていたのが、アブラハムです。時間的なことを考えると、アブラハムがイエスさまと出会うということは、到底不可能なことです。
しかしイエスさまは、「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」と言うのです。その理由を「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)と聖書は言っております。
この信仰の故に、アブラハムは「喜んだ」とありますよね。聖書は、この喜びを大切にしています。もともと神さまは人間を喜ぶ存在として創造されたようなのです。だから、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8:10)と聖書は断言していますね。喜びこそ力の源なのです。
罪に支配され、暗い現実を見せ付けられる私たち。いつの間にか希望を掲げて、ビジョンを持つことを忘れてしまいます。でも信仰は、まだ見えない先のことを確信して、その将来を見据えて生きるのです。現実に支配されると、どうしても暗いことばかりを考えるので、将来を考えていない、と言っても、その人は暗い将来をビジョンとしてしまっているのです。だからこそ、キリスト(救い主)と呼ばれるイエスさまが備えて下さっている道には、大きな喜び、永遠の命、もはや目には涙もなく、死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない、そんな世界があるのだ、ということを覚えたいと思うのです。
三つ目の幸いとして、将来が輝かしいゆえに、私たちには喜べるということを覚えたいと思います。