喬木教会礼拝説教
2003年12月28日(日)

神を証しする           ヨハネ 9章13〜34節

◆ファリサイ派の人々、事情を調べる

13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

 

今年一年、最後の礼拝。この一年はどんな年だったでしょうか?振り返り、反省しつつ、新たな年に向けての備えをしていきましょう。

 

ポイント1 何を見つめてきましたか?(17)

盲目であった男が見えるようになった。その状態を見た人々はどんな気分だったでしょうか?驚きと、喜びと、そして戸惑いがあったのではないでしょうか?そこで、人々はこの男をファリサイ派のもとに連れて行きます。なぜわざわざファリサイ派の所に連れて行ったのでしょう?レビ記13章では、皮膚病になった場合は祭司のもとにその人を連れて行き、病か、そうでない(「清い」状態)か判断してもらう、という戒めがありました。だから、人々は本当に神の業かなんなのか知りたくて、ファリサイ派のもとに連れて行ったのでしょう。

でも、これが原因で大きなムーブメントが起ります。

盲目だった男は、ファリサイ派から厳しい質問攻めにあうのです。そしてファリサイ派内部でも分裂するという事態に陥りました。その中心にいたのが、つい先ほどまで目が見えなかった男です。

この盲目の男性。どんな男性でしたか?今まで真っ暗闇の中で、自分を裁く声しか聞いてこなかったような男性です。人前に立てば非難される。そんな生活を続けてきていたので、普通なら人前で堂々と意見できるような性格ではなかったと思うのです。特にファリサイ派は、人々を宗教の名のもとに束縛し、支配していましたから、本当に恐ろしい存在でした。その彼らが「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」と問うと、普通なら「わかりません。勘弁して下さい。きっと詐欺師か魔術を使う者だと思います」とか答えていたでしょうが、彼は「あの方は預言者です」とはっきり言い切りました。

弱い彼が、世の力持つ人々に対して、はっきりと自分の思いを伝えられる。その理由は、彼が自分の目を開いて下さった方を見続けていた所にあるのです。インマヌエル(いつも共にいて下さる神)なる主は、確実に私と共にいて下さって、私の人生に介入し、御業を成して下さった!!そしてこれからも成して下さる!!その事実をしっかりと見つめていたのです。それが彼の力の源でした。

今年一年、神さまの御業に目を留めて、恵みの内に過ごしてきましたか?神さまは昔も今も変わらずに、素晴らしい御業を成してくださっております。この恵みにしっかりと浸り、力強い、Power Christianとしての歩みを続けましょう。

 

ポイント2 自分の信仰を言い表してきましたか?(23)

この盲目の男性には両親が健在でした。そこでファリサイ派は今度は両親を呼び出し、問いただしました。盲目だった男、彼は本当に生まれつき目が見えなかったのか!?と。両親は確かに彼は生まれつき目が見えなかったと証言します。すると、ファリサイ派はまた同じ質問を繰り返します。ではどうやって見えるようになった!?と。

両親は息子から、目が見えるようになった経緯を聞いていたでしょう。だから、息子と同じことを言えたはずなのです。ところが、彼らは言いませんでした。息子に聞いてくれ、と言ってその場を逃れたのです。

人類最初の罪は、神の戒めを破り、それを責任転嫁する、というものでした。ここでもその罪が繰り返されていますね。「息子に聞いてくれ」ということで、自分には関わりはないんだ、と言っているのです。神さまの御業への関わりを拒否してしまっているのですね。

ですから、私たちはここに反面教師を見るのです。何か問題があると、「いや、知らない」、「それは私がやったのではない」、「あなたがそう言った」、「この状況が悪いから」等々。今年一年間、どれだけこの罪を犯してきたでしょうね?

私たちが罪を転嫁できる所はただ一箇所ですよね。それが十字架のイエスさまです。イエスさまに罪を転嫁させる。恐れ多いことですが、このことを通してのみ、私たちは罪から解放されるのです。だから、罪を転嫁させる「罪の悔改め」は大きな恵みです。

神さまの恵みに参与することから逃げよう、としませんでしたか?神さまの導きに従うことを拒否したことはありませんでしたか?積極的にならず、否定的になったことがありませんでしたか?今日、しっかり悔改めて、赦しの恵みを頂き、綺麗に清めていただきましょう。そして、新たな思いで新しい年を迎えましょう。

 

ポイント3 神に期待し、奇跡を体験しよう(31)

今年一年を終えるにあたり、新たな年へ何を期待しますか?私たちの外、政治や経済、社会環境が整うことを期待しますか?それとも自己実現、目標を達成することに期待しますか?

イエスさまはどのような存在として私たちのもとに来て下さったのでしょうか?私たちの救い主です。でも、それと同時に、神の国の基準で生きるとどうなるのか、その模範ともなってくださったのです。

ある時、イエスさまはこう言いましたね。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである(ヨハネ14:12)と。

イエスさまを信じる。そのことで大きな業を成す者とさせて頂いたのです。いや、イエスさまよりも大きな業を成すようにさせられているのです。

「イエスさまよりも大きな業」という時、ついそれにうろたえてしまい、そんなこと出来ないと思いこんでしまいます。でも、約束を下さった方はどなたですか?私たちを救うために来る、と言われ、本当に来てくれて、さらに私たちを救うために命まで下さるお方ですよ。まさに真実なお方。このお方が、「もっと大きな業を行うようになる!!」と宣言して下さっているのです。

盲目の男性は、ファリサイ派に対して、大胆に神の真理を語りましたよ。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と。

福音は人を変えます。人が変わる、ということは本当に大きな奇跡です。偉大な神さまの御業ですね。でも、その福音は、誰か偉大な人が、又は牧師が語れば全員に行き渡るのか、というとそうではないですよね。ファリサイ派は、男の言葉に耳をふさぎましたが、彼を通してでなければ神の御心は伝わらなかった。これはある意味でイエスさまよりも大きな業だったのかも知れません。同じように、あなたでなければ福音が伝わらない人がたくさんいるのです。その人たちに、私たちが福音を示してみましょうよ。神の御業に自ら進んで参与するのです。

神の業に参与し続ける時、イエスさまが言われた「私のなによって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば治る」(マルコ16:17,18)というしるしも伴ってくるのです。

これから迎える新しい年、私たちが神さまの御業に参与し、偉大な奇跡を体験する年になるように期待しませんか。神さまは私たちの信じたようにして下さいます。