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喬木教会礼拝説教 2004年1月4日(日)
見えない者が見えるように
ヨハネ9章35〜41節
◆ファリサイ派の人々の罪
35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。
そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいの
ですが。」37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなた
と話しているのが、その人だ。」38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざ
まずくと、39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。
こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」40
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないという
ことか」と言った。41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はな
かったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
今まで目が見えなかった人を中心にして起った議論。その結果、もともと目が見えたファリサイ派と、
目が見えなかったけど、主によって見えるようになった男との違いが表されております。そこで今日は、
目が見えるようになった幸いを覚えたいと思います。
ポイント1 広い世界を見ることが出来る (解放)
今まで使っているパソコンがあった。パソコンについてはよくわからなかったりもするけど、自分のパソ
コンについてはある程度理解しているつもりでした。ところが、この前パソコンを一人の青年に見てもら
ったら、今までついていた部品で、全く使っていなかった、しかも使えると非常に便利になるパーツを発
見したのです。
自分はこれで全部、と思っていた世界でしたが、そのパーツによって使える機能の世界がなお広がったの
です。
パソコンの世界は広すぎて、私にはその多くを理解することは出来ませんが、ちょっとしたアドバイスで
かなり使い方が変化し、その世界は広がるのです。
自分の見ている世界。自分の生きている世界。私たちはその世界を知ったつもりになります。当然「まだま
だ知らないことはたくさんある」と思っているのですが、さらに知るために努力をしたり、探し求めたり、
ということはあまりしません。その世界に満足しきってしまうからなのです。
罪の世界から、イエスさまの十字架によって救われた人は、ここまで、と思っていた世界に光があてられ、
その見える世界が全く違ってくることを経験します。何気なく見ていた全てのものが、輝いて神さまの栄
光を反映していることに気がつきます。自分を苦しめている人生の様々な出来事が、実は自分を整える上
で非常に重要な試練であったことに気が付きます。私たち心にあった暗闇は、主より与えられた光によって
徐々に明るくなり、喜びによって失望を押し出し、心には感謝と希望が宿るようになります。
私たちの心がいかに変化するか。それは、イエスさまの十字架の死を、私たちの贖い業として、主を私個人
の救い主、として受け取るか取らないか、そこで変わってくるのです。
私たちの心は、「どうせ・・・」という思いで簡単に支配されてしまうものです。そのような否定的な思いを
打ち消し、常に積極的に、肯定的に生きることが出来るよう、私たちの心を縛る罪を主の十字架につけ、
解放をいただきましょう。
その時、罪という目隠しなしに世界を見ることが出来るようになるので、私たちの世界は広がるのです!!
ポイント2 危険を避けることが出来る (御言葉に従う)
目が見えるということはどういことでしょう。それは、自分の目の前に何があるのか、識別することが出来
るようになった、ということです。識別するのです。
生まれたばかりの赤ちゃんも、目が見えているわけですね。でも、まだ何が危険で、何が安全かは理解して
いません。だから、親が常に「危ない!!」とか「気をつけてね」とか、危険なものを教えなければなりません。
キリストによって目が見えるようになったということは、なにが危険で、何が安全かを知る、ということ
なのです。
イエスさまが39節で「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない
者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われたのに対して、ファリサイ派の人々
は反論しました。「我々も見えないということか」と。
ファリサイ派は、目が見えていたのです。もしかしたら視力も良かったかも知れません。盲目の男のように、
罪があって目が見えなくなったのではない、というプライドもあったでしょう。でも、イエスさまはその状態
を「見えないようになる」と言われたのです。
私たちは肉眼の目に見える所に頼るべき存在ではない、ということを教えられます。パウロも、私たちの
戦いは血肉によるものではなく、目に見えない勢力との戦いであることを述べておりました。
肉の目によるのではない視力。それはどのようにして見えるようになるのでしょうか?聖書しかないですね。
今年の最初もデボーションをするように勧めましたが、御言葉を通してのみ、私たちは自分の正しいあり方を
知ることが出来るのです。
目が見えず、自分を罪人だ、愚かな者だ、そう思い込んでいた男は、御言葉によって、その状態が神の栄光
のためであったことを知るのです。御言葉を通して、正しいものの見方を知るのです。御言葉によって正しい
道を知るのです。
肉の目に頼ることなく、霊の目において、正しい道を知り、危険から逃れましょう。
ポイント3 考えることが出来る(霊の成長)
今年、喬木教会の歩みは、神さまからの祝福をたくさん頂く歩みになるでしょう。その祝福とは何でしょうか?
色々な方面における祝福をいただけるのでしょうが、その中の一つに、教会としての霊的成長があります。
聖書を見るとき、教会はキリストを頭にした、体である、ということが述べられています。私たちの体は
どのようなものでしょうか?新陳代謝を繰り返し、成長するものですよね。ということは、教会は成長する
ものなのですよ。どういう形で成長するのでしょうか?
二つの種類の成長があります。一つは量的です。数が増える、ということです。新しい人が来て、救われ
れば数は増えるのです。ですから、量的な成長ももちろん求めて行きたいと思います。
でも、量的な成長は、後からついてくるものだと思うのです。だから、もう一つの成長、質的な成長、
これを求めて行きたいのです。質的な成長とは、私たち個人が御言葉に養われ、聖書の主張を正しく受け止め、
自分の信仰を養うことになるのです。もし私たちが質的な成長を遂げるならば、量的な成長は当然の結果
として付いてくるのです。
イエスさまの言葉を見てみますと、41節。「イエスは言われた。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。
だから、あなたたちの罪は残る。」
彼らに罪があるかないかは、その人が何を言うか、にかかっているようなのです。何を言うか、それは
私たちの心の向きをどこに向けるか、ということでもあります。どこに向くか、何をするか。何を選択するか、
が重要なのです。
成長することを選択するか。現状に留まることを選択するか。祝福を選ぶか、現状を選ぶか。神の御心に
従うことを選ぶか、自分の欲に従って生きることを選ぶか。
主は、見えないのに「見える」と主張するところに罪がある、と言われました。でも、聖書の光を受け、
キリストの内に住み、見えるようになった私たちは、実際に見えるようになったのですから、正しい選択を
することで、成長の道を歩みたいと思います。
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