喬木教会礼拝説教
2004年1月11日(日)
羊は飼い主の声を知る <ヨハネ 10章1〜6節>
◆「羊の囲い」のたとえ
1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2 門から入る者が羊飼いである。3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
主の御声を聴き、主に従う。これが年度の標語。ただかざってあるだけでは意味がない。実践が重要なわけだが、どのように出来るのか?
今日の聖書箇所では、イエスさまのたとえ話のみが語られております。これは、当時の指導者たちである、ファリサイ派に対して語られていることです。次回、その内容がよりはっきりと語られるので、今日は、特に羊について見てみたいと思います。
ポイント1 主の声を聞き分けられる耳を持て(3)
イスラエルの土地は、大部分が荒れていて、石が多かったそうです。ですから農業するために、開墾するのは大変なことで、そのため牧畜がよくなされたそうです。ですので、羊飼いもたくさんいたようです。
日本人の私たちが「羊飼い」と聞くと、どんな姿をイメージしますか?私は「アルプスの少女ハイジ」に出てくるピーターを思い出すのです。アルプス山脈に囲まれて、素晴らしい景色の中、緑色のジュータンがひかれているような草原で、可愛い羊を引き連れて歩く姿。まるで毎日がピクニックのような、そんな仕事であるかのようなイメージですね。
ところが、現実の羊飼いはそんな生易しい仕事ではなかったようです。まぁ、羊飼いについては、イエスさまが羊飼いなので、次回、詳しく見て行きたいと思うのですが、大変な労苦の中で羊を守り、導くものなのです。そのイエスさまが羊飼い。ですから、私たちはその羊飼いに飼われ、導かれる羊になる、ということなのです。
ということで聖書を見てみると、実に旧約聖書から私たちが羊であり、主、メシアが羊飼いであることが多々述べられているのです。中でも有名なのが詩編23編でしょう。「1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2
主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」と言われる通りです。
そして、羊は、羊飼いの声を知っている、と言うのです。事実、イスラエルを旅した人が書いた文章を見ると、まさにイエスさまが言われた通りのことが、現実になされていたと言います。
ちょっと紹介をしますと、W.M.トムソン著の「聖地と聖書」にこうあります。「羊飼いは折々自分の存在を知らせるために、するどい呼び声を発する。羊はその声を知っていて、それに従う。ところが、違う誰かが呼ぶと、ちょっと立ち止まり、びくっと顔をあげるだけである。それを繰り返すと、羊はくびすを返して逃げてしまう。その人の声を知らないからである。わたしはためしに何回かそれをやってみた」。
羊は、羊飼いの声を知っている。どうでしょうか?私たちは、私たちを飼う、主の声を知っているでしょうか?
救われて間もない方は、時に相談に来ます。ある問題を抱えて祈っているのですが、その祈りに対する答えが、自分の思いなのか、神さまの答えなのか、それともサタンの惑わしの声なのかわからない、と。これは信仰歴の長い方でも時折持つ問題です。
救いを受けるまで、ずっとこの世の声、自分の声を主として聞いてきた耳ですから、すぐにイエスさまの声を聞き取れるようになるか、というと(個人差はあるでしょうが)そう簡単に出来るものではないですよね。だからこそ、私たちは常に「神の国と神の義」を慕い求めるようでありたいのです。
幼子を持つ母親は、遠く離れていても、自分の子の声は聞こえるものです。私たちも主を第一とし、その御声を聞くことを大切にするならば、主の御声を聞き取れる耳が整えられてくるのです。
私たちの心の中で、何が一番大きな存在になっていますか?小さな決断に至るまで、全て主に尋ねられるほど、また、何か出来事起ったなら、すぐに主に感謝できるほど、主の存在を大きくしましょう。そのことで、主の声を聞き分ける羊となりましょう。
ポイント2 主の後に従え(4)
羊飼いの仕事は、羊を養うことです。そのために、青草のある所、または水のある所に連れて行かなければなりません。羊はかなり近眼だそうです。それと方向音痴。周りは岩がゴツゴツした場所で、崖もある。導いてもらえなければ、食事にありつけないのです。それどころか、死んでしまう可能性もあるのです。
これもやはり私たちの生活を象徴していますよね。私たちの周りはどうでしょうか?確かに今の時代、食事にありつけなくて困っている人はそういません。食べ物が有り余っている。でもその半面、大事な心が養われていないと叫ばれています。心が養われるどころか、心を堕落させる誘惑が世に満ちているのです。そして私たちの目も、永遠に存在するので、永遠の視野を持っていて良いのですが、どうしても現実、またそのちょっと先しか見ることが出来なくなっている...
導いてくれる方がいなければ、簡単に道に迷い、常に心に満たされない思いを抱きながら、虚しい人生を歩むようになってしまうのです。
そうならないために、主は羊飼いとして来て下さった。そして命を得るために、青草に、憩いの水のほとりに導いて下さっているのです。羊はそれについて行く、とありますよね。羊はついて行くのです。
簡単に「ついて行く」と言いますが、実はこの羊飼いについて行くのは、結構厳しいことであるかも知れません。なぜなら、他の箇所でイエスさまはこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)。イエスさまに従う道。それは十字架を背負うことなのです。これは決して楽なことではないでしょう。でもイエスさまは続けて言いました。「自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(同25)。
現実の世界に縛られてしまう、近視の私たちは、十字架を負うことを苦しいこと。避けるべきこと。と考えてしまいやすいのです。でも、羊飼いは羊に命を得させるために来て、命へと導いて下さっているのです。だからこそ、十字架を背負い、私に従いなさい、と言っているのです。
まだ清算させていない罪はないですか?清算されていない、赦されていない罪があるならば、きっと十字架を避けて通ろうとしてしまいます。罪をことごとく告白し、赦して頂きましょう。主は真実な方ですから、私たちを罪から赦し、不義から清めて下さいます(1ヨハネ1:9)。そして、自分の十字架を負い、主に従いましょう。
ポイント3 他の声からは逃げろ(5)
最後に、主は羊の所に来るのは、本当の羊飼いと、偽者の羊飼いが来ることを示されました。神の国と神の義を慕い求め、神さまを第一にしていて、そして自分の十字架をしっかりと背負っている、ちゃんとした羊になっていれば、この偽者の羊飼いにはついて行かない、というのです。
当時の指導者、ファリサイ派に向かって語られていることなので、彼らに対する警告の意味も含まれていたのだと思います。でも、私たちが羊である、という立場で見てみますと、ここにも私たちが気をつけなければならないことが記されていることがわかります。
教会の中にも、羊を惑わして、命の道から迷い出させようとする者が入ってくる可能性がある、ということなのです。惑わし、命から迷い出させるのは誰ですか?最初の人、アダムとエバを堕落させた存在です。そう、それはサタンです。
聖なる教会で、サタンが働けるわけがない、と思いますか?実は働けるのです。聖書にこんなことも書いてあります。パウロが記した2コリント11:12~15ですが、そこには、自分の満足を追い求め、誇る機会を狙う人々がいて「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最後を遂げるでしょう」。
なるほど。そのような偽の聖徒たちがいるのですねぇ。でも驚くに当たらないんだ...などと思ってしまいますが、これはそう簡単なものではないですよ。私たちはどうやって本物か偽者かを見分ければ良いのですか?
聞いた話なのですが、ある時、テレビ番組で、そっくりさん大賞というのがあったそうです。当時の人気俳優であったチャップリンが、内緒でこれに出場したそうです。誰か他人のそっくりさんではなくて、チャップリンのそっくりさん、ということで出場したそうですよ。本物が出るのですから当然優勝する、と思うでしょ?でも優勝してたらこんな話はしないですよね。彼は準優勝だったそうですよ。
本物か偽者かわからない。いや、逆に偽者の方がよく見えてしまう、そんな世の中であるのかと思わされてしまいます。
本物か偽者か。その見分け方は一つですよ。偽札を発見する人はどんな偽札があるのか、と偽札の研究をしないのです。徹底して本物を知ることに心がけるのです。
惑わし、教会を破壊しようとする者がいつ来てもおかしくない。だからこそ、従順な羊である私たちは、徹底して本物の神、本物の恵みに、本物の信仰に触れてなければなりません。だからこそ、私たちは聖書を読みましょう。御言葉に養われましょう。御言葉漬けの日々を送りましょう。時間があると何気なくテレビをつけてしまうのクセの方は、テレビではなく聖書を開きましょう。趣味に時間を多く費やす方は、趣味の時間をちょっとでも削って聖書を開きましょう。忙しい方は、休憩時間に聖書を開きましょう。聖書を読むための時間を作り、御言葉を心に注ぎ込みましょう。
その時、聞こえてくる声が何処から来ているのか、私たちははっきりと聞き分けることが出来るのです。
羊飼いの声を知る羊として、日々導かれて参りましょう。