喬木教会礼拝説教
2004年2月1日(日)
声を聞き分ける <ヨハネ 10章22〜30節>
◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30 わたしと父とは一つである。」
結論を先に申しますと、声を聞き分ける、そのことで何をするのかというと、本当の飼い主を信頼し、そのお方の後をついて行く、ということであります。聞き分けるだけでなく、聞き分けた後に従っていける者となりましょう、ということです。
そこで、本当の飼い主の声を聞き分け、この飼い主に従って行けば良いわけですが、なぜわざわざそのことを強調しなければならないかと言うことですが、その点で幾つか気をつけることがあるので、そのことに注目していきたいと思います。
ポイント1 惑わしの声に気をつけよう
まず、聞き分ける、というからには、聞き分けねばならないほどの多くの「惑わしの声」が私たちを取り巻く環境には存在する、ということを最初に知りたいと思います。
「犯罪の低年齢化」と騒がれておりますが、今の子達が虐待を受け、人格として認められず、その心に歪を持ったまま成長するならば、犯罪の低年齢化は当然起こるべくして起った結果、と考えても何の不思議もないでしょう。
なぜそのような問題が起るのか、これは私たちが普段耳に入る情報に原因があるように思えるのです。人は耳から入る情報で教育され、人格が形成されるからです。
その情報はどのようなものでしょうか?一般の学校で教えられているものは進化論です。進化論による結果、私たちは神の存在を認めず、唯我独尊の世界を築きます。ですから、自己中心が当たり前なのです。弱い者は滅ぼされる。強い者は進化を遂げさらならる発展をする。生きるべきか死ぬべきか、それは人間が勝手に決めることが出来る、というものです。
今日の箇所で、イエスさまのもとにユダヤ人たちが詰め掛け、「あなたはメシアか?はっきり言え」と問い詰めております。イエスさまはそうであることを示した。でも、彼らは主の羊ではないので、その声を聞き分けられない、と言われております。その彼らは主の声を聞き分けず、何の声を聞いていたのでしょうか?
自分の声です。自分中心の声です。それと、人の声。世間体や名誉欲などです。これらの声に耳を傾けてばかりいたので、聖書に精通していても、メシアの声を聞き取ることが出来なかったのです。
私たちの環境は、神の声を聞こえなくするほど、多くの声が飛び交っています。しかもその声が正しく聞こえる。筋が通っているように聞こえる。だから間違いを犯し安いのです。
まず覚えたいことは、この世の中、様々な声が飛び交っているので、よくよく注意して聞き分けなければ本当に危険である、ということです。声を聞き分ける必要性を覚えて下さい。
ポイント2 主の声を知ろう
続いて、聞き分けるのですから、どれが飼い主の声なのかを知らなければなりません。皆さんは、しっかりと飼い主の声を覚えていらっしゃるでしょうか。
羊の習性は、飼い主ではない者の声を聞くと、逃げ出す、でした。飼い主ではない者の声が聞こえたら逃げ出す。これが信仰者の正しい姿なのかも知れません。でも、それをするにしても、飼い主の声を知らなければ、判断のしようもないのです。
私たちはどのようにして飼い主の声を聞き分けるのでしょうか?聞き分ける時にはその内容で判断するしかないのです。
自己中心の考え方に満ちていたユダヤ人たちは、イエスさまがメシアであることを示しているのに、それに気が付きませんでした。いや、気が付きたくなかったのでしょう。今回聞いたことにしても、もしイエスさまが「私はメシアだ」と言えば、「冒涜罪」か、または「反乱罪」として訴えようとしていたのでしょう。
でも、本当にメシアを待ち望んでいる者には、その語られる内容から、このお方こそがメシアでる、という確信が生まれていたのです。
ですので、聞き分ける判断基準として、私たちはその内容を聞かなければなりません。
マタイ福音書の4章には、イエスさまが誘惑する者から誘惑を受けている記事が記されております。その内容を見てみますと、誘惑する者は、その人が一番必要を覚える所をうまくついて誘惑していることがわかります。もし私たちが自己中心的に物事を考えるなら、たやすく誘惑者の声に乗っかってしまう誘惑です。
そして気をつけることは、誘惑する者は御言葉を引用する、ということです。聖書にこう書いてある、だから大丈夫だ、と。ですから私たちは、語られる内容に御言葉があれば大丈夫、などと安心しておれないのです。聖書の言葉は聖書によって理解するべし、と言われておりますが、本当にその御言葉が、状況に合って、神の御旨として語られているのかをよくよく判断する必要があるのです。
その判断をするためにも、私たちは聖書を知らねばなりません。聖書の主張を知らねばなりません。世の中は聖書を読む時間があったら働け、と言うでしょう。でも、その声に逆らってでも、私たちは聖書を読まなければならないのです。なぜなら、聖書を読んでいないと、本当の飼い主ではない者の声を聞き、従ってしまいやすいからです。
聖書を読み、声を聞き分けられるようでありましょう。
ポイント3 聞いたら従おう
最後に、聞き分けた後に従う必要性ですが、なぜ従わなければならないのでしょうか。聞き従うならば、イエスさまはその者に永遠の命を与える、と約束して下さっているからです。
ユダヤ人たちは、「いつまで気をもませるのか」と言いました。これは英語ではサスペンス(Suspense;不安、気がかり、懸念)という語が使われております。不安なのです。自己中心で、いくら自分の声に耳を傾け、その声に従順に従って行ったところで、その心から不安を取り除くことが出来ない、というのです。
ところが、イエスさまに従うならば、その者には永遠の命を与える、と言われます。永遠の命とは何でしょうか?私たちは誰もがこの世を去る時を迎えます。ですから多くの人が一度は、「どうせ死ぬなら何のために生きるのか」と考えたことがあると思いますが、生と死という綱を一生懸命渡ろうとしているような状態、不安定な状態で生きていたのです。そこに永遠の命です。死ぬことがない命を私たちに与える、という約束。
これは綱渡りの状態から解放されたことになります。落ちる心配のない。また重荷を負って歩く必要もない、まさにパラダイスに置かれたことです。だから心に平安がくるのです。
ある本の中で平安について面白い説明がされていました。それを読んで、その通りだと思ったのですが、不安という状態は、回転が鈍り、ぐらついているコマのようだ、というのです。いつ死んでしまうかわからない状態です。逆に平安というのは、早く回転し、その軸が狂うことなく周っているコマのようだ、というのです。そのコマは動いている、周っているのですが、まるで止まっているかのように見えるのです。
平安、それは「イエスさまを信じます。声を聞き分けることが出来ました。アー良かった」で終りになるのではないのです。超高速で動いているコマが平安であるように、主の声に聞き従い、動いている状態で初めて本当の平安を得られる、ということなのです。
どうでしょう。動かずに一日中ボーっと過ごしてみましょう。頭の中には色々な思いが飛び交います。御言葉を読み、主の御声を聞いたとします。でも動かないでボーっとしていたら、御声を聞いて動いた事により、どんどん不幸になる自分を想像してしまうのです。人間は自然にしていれば否定的に物事を考えてしまうからです。
でも、御声を聞いて動いていたらどうでしょう。ボーっとする時間がなくなる。否定的な考えが入り込む余地がなくなるのです。そして行動しているので、神さまの御業を見ることが出来るようになります。私たちの生活に証が満ち溢れるのです。心には喜びが生まれます。
従うこと、これを忘れると、評論家になりますね。クリスチャンは評論を垂れている必要はないのです。プレイヤーとして、霊の武具を身につけて、血肉によらない戦いをしていく者なのです。だから、体を動かさなくても、祈りにおいて従うことが出来るのです。体を動かせる人は実際的な働きが出来るのです。御声を聴き、主に従う歩みをいたしましょう。
結論
イエスさまはとことん父なる神に従いました。その理由は何でしょう?父なる神への絶対的な信頼です。父なと一つである、父の手から奪われることはない、父が下さったものは全てのものより偉大。本当に父を信頼していたのです。
信頼するお方の言葉だから、じっくりと耳を傾けます。聴きます。そして従うのです。
主なる神を信頼し、その声を聞き分け、聞き分けたなら従っていきましょう。これが私たちが平安を得、本当の意味で幸せになれる道なのです。