喬木教会礼拝説教
2004年2月15日(日)

業を信じなさい         ヨハネ 10章31〜42節

◆ユダヤ人、イエスを拒絶する(続き)

31 ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。32 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」33 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」34 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。35 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。36 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。37 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」39 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

40 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。41 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」42 そこでは、多くの人がイエスを信じた。

 

イエスさまは私たちの模範であります。模範なのですから、その模範と同じ事を私たちはしていかなければならないですね。出来ていますか?

 

@      絶対の自信を持とう(34節)

羊と羊飼いのたとえから、ユダヤ人を戒めたイエスさまは、ユダヤ人の手によって石打の刑に処せられようとしてしまいます。なぜでしょう?イエスさまも石を手にしたユダヤ人に問いかけています。「なぜ私を石で撃ち殺そうとするのか?」と。彼らは、「お前は人間なのに、自分を神と等しいものにしたからだ。それは冒涜罪だ!!」と答えました。

それに対してイエスさまは聖書の言葉をもって、自分の言う事は正しい!!と言いました。これはユダヤ人特有の議論方法かも知れませんが、イエスさまはユダヤ人が好む議論法方、聖書の御言葉で、彼らをねじ伏せたのです。

もし、自分を取り囲む人が自分を殺そうと殺気立ってきたらどうしますか?自分がやられる前に周りの人々をやってしまうか、何とかその場を逃れようと一生懸命になるか、どちらかですよね。しかし、やられる前にやる、というのは無理でしょう。それで、その場を逃れるしか道はないわけです。そのための手段を頭の中で色々と考えるでしょう。ある人は土下座をするかも知れないし、ある人はスケープゴートを見つけるでしょうし、ある人は一目散に逃げ出すかも知れません。イエスさまはどうしていましたか?ユダヤ人の用いる論法で彼らをねじ伏せたのです。

人々が殺気立って迫ってきているその時に、彼らの論法を考え、それに自分の思いを当てはめる、という作業をイエスさまはした訳ですが、そんなこと普通出来ると思いますか?相当な修羅場を潜り抜けた人なら出来るかも知れませんが、普通は出来ないですよ。なぜイエスさまは出来たのでしょう?

36節を見て下さい。「それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか

父から聖なる者とされて世に遣わされた、というのです。遣わされた。それは使者、公使として送られることです。ということは、送られた人の責任は全て送った人が負う、ということです。

自分の意思で、自分の好きな所に行く、というだけなら、全ての責任は自分で負わなければなりません。そうなると、自分に絶対の自信がない限り、どうしても逃げ腰になってしまい、迫り来る人々から逃げようとしてしまいます。

もともと、「クリスチャン」という言葉ですが、これはキリストに従う者、キリストに似た者という意味であります。私たちがクリスチャンとして歩む、それはこの世にあって、主の業をなす者であり、父から聖なる者とされて、遣わされた者なのです。自分は父から遣わされている。だから父の御旨を日々悟りつつ、クリスチャンとしてのプライド、自覚を持って、究極の場面でも遅れを取らない者となりましょう。

 

A      実践の生活を送りましょう(38節)

論争によって言いくるめられたユダヤ人はそれで納得するでしょうか?私も経験することではありますが、言葉によって言いくるめられる、と思わされることは不快な思いを抱かされます。理屈で納得出来ても、気持ちがすっきりしない場合が多々あるわけです。それでイエスさまは何と言ったでしょう。

37,38節「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」。

言葉だけではない。行われている業を見なさい。現状を見なさい。実を見なさい、と言われたのです。

最近読みました本の中に、面白い文がありました。こんな内容でした。今、格闘技がブームなっている。それで格闘技オタクが増えているが、彼らはリングで戦えない。戦っても勝ち目がない。格闘技を実践するためには習って、訓練し、研究、実戦していかなければならないと。それで、教会の中でも、聖書や信仰について語れるオタクがいても、実戦できるクリスチャンが少ないのではないか、というのです。

それを読んで、随分過激だなぁと思いつつ、確かにその通りだと思わされました。一般の企業でも、ちゃんと働けるように研修期間があります。スポーツでも地道な訓練をします。生花でも書道でも基礎があって、繰り返し繰り返し練習をします。なぜクリスチャンは真理と言われる理屈を、教えられるだけ教えられて、実生活の中での実践がないのだろうか?不思議に思ってしまいました。

イエスさまは冒涜罪で石打の刑にされそうでした。でも、言葉によって自らの身の潔白を表し、同時に行いによっても、実生活においても非の打ち所がないことを示し、その業で彼らを二重にねじ伏せたのです。

御言葉の実践。普段意識してますか?デボーション、御言葉を聴いて、神さまの御旨を実践しましょうよ。

 

B      絶えず恵みに帰る(40節)

ユダヤ人をねじ伏せたイエスさまはその後、どうしたのでしょう?「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」とのことです。

ヨハネがバプテスマを授けていた所ですね。そこでもしかしたら、自分が洗礼を受けた時のことなどを思い出していたかも知れません。

イエスさまの生涯を見てみると、大きな業を成す前と後には、必ず退いて一人だけで祈る時間を持っております。今回も盲人を癒し、ユダヤ人との論争し、大きな働きをしました。そしてこれからはラザロを死から甦らせるという業をなします。今回退いたのも、やはり激動の中にあって心落ち着かせる、一時の休養、静まる場、だったのです。

私たちの生活はどうですか?今の時代、殆ど全ての人が「忙しい」と言いますね。忙しいのです。聖書を読む、デボーションする、それを後回しにしたら、その時間を二度と取ることが出来ないほど、やること、行く所、見るもの、考えること、がたくさんあるのです。世の中の流れに乗っていたら、私たちは自分が何処にいるのか、全く検討がつかなくなってしまうほど、目まぐるしい生活をしているのです。

イエスさまは常に神さまと深く交わる場を持っておりましたが、今回はヨルダンの向こう側に行きました。それはどんな場所でしょう。洗礼を受けた場所です。それは、自分のルーツといいましょうか。自分が何者であるのか、その根本を現す場所です。

私たちは一体何者ですか?世の中は色々な役割を私たちに求めます。それで数種類の仮面を身に付け、いつの間にか、本当の自分を忘れさせてしまいます。ある時は一人の男、女としての仮面。ある時は父として、ある時は友として、ある時はサラリーマンとして、ある時は主婦として、ある時はコメディアン、ある時は説教者、ある時はスポーツマン、ある時は夫、妻…全部自分自身ではあっても、どれが本当の自分なのでしょうか?

私たちは皆罪人でした。その私たちは、神さまから造られ、神さまに独り子を賜うほどに愛された存在でありました。自分の存在価値、自分の存在そのもの、それは独り子を犠牲にしてさえも守りたいと思われるほどに愛されている存在なのです。そして実際に私たち一人一人を救うために、独り子なるイエス・キリストが十字架につき、私たちの命を贖ってくださったのです。

十字架。これが私たちの根源にあります。現実を前に打ちひしがれたり、神の求めから逃げ出そうとしたり、人の目を気にしすぎたりしていませんか?そんな時にこそ、私たちはヨルダンという、霊の生まれ故郷に帰りましょう。そして、神さまが自分をどのように扱って下さっているのか。どのような約束を与えて下さっているのか覚えましょう。

神の約束をしっかり頂いて、神の子としての自覚を持ち、神の業を行いましょう。