喬木教会礼拝説教
2004年2月29日(日)

死は終りではない         ヨハネ 11章1〜16節

◆ラザロの死

1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 

ある牧師と話をしました。彼は「宗教」という言葉が嫌いなようでした。その理由まで詳しく聞いた訳ではありませんが、彼の言葉から感じられるところは、宗教は人の助けにならない、何の意味もない、と考えているようでした。確かにそうかも知れませんね。

主を信じ、信仰を持つということは、世の中では宗教と呼ばれるかも知れませんが、それは私たちの生き様として、具体的であり、意味のあるものであることを覚えたいと思うのです。

そこで今日は、信仰を持つことによって、どのように私たちが変化するのか、又は変化したのか、確認しつつ、変わる恵みを頂きましょう。

 

@      困った時は「イエスさま!!」(3節)

イエスさまは旅の途中で、マルタとマリアの家に寄られることがあったようです。この姉妹は特別に主に憩いを提供していたようで、イエスさまにとても気に入られているようなのです。今日はこの姉妹のもう一人の兄弟、ラザロが病気になった、ということですね。

どのような病気であったのかはわかりません。でも、非常に重たいものだったのでしょう。危篤状態なので、姉妹はイエスさまを呼びました。

危ない時、私たちはどうしますか?なお頑張りますか?逃げ出しますか?ただ堪えますか?

「働かざるもの食うべからず」とも言われますが、私たちの世の中は「行為義認」、行いがあって報酬を受けられる、と考える世界です。この考えがそのまま信仰に移行してしまっているケースがあります。そうなるとどうでしょう?一生懸命律法を行うことを追い求め、律法を行うことによって神さまに認めてもらい、必要な助けを得ようとしてしまいます。

5節を見ると、イエスさまはマルタやマリア、そしてラザロのことも愛しておられた、とあります。「愛」は報酬ではありませんよね。だから、イエスさまに助けていただくに相応しい生活を送っている、相応しくない行為しかできていない、そんなこと考える必要はないのです。

神さまは私たちを愛し、一人も滅びることなく、永遠の命を与えるために、独り子であるイエスさまをお遣わし下さいました。この神さまの愛を信じて、どんな時でも「イエスさま!!助けて下さい!!」と言いましょう。これは信頼の表明でもあります。

 

A      神の栄光が現されることに期待しよう(4節)

私たちの生活の中には、「どうしてこんなことが...」とつぶやきたくなる出来事がしばしば起こります。そのような出来事に直面した時、皆さんはどのように対処されるのでしょうか?

いじけますか?叫びますか?八つ当たりしますか?それとも、堪えますか?頑張りますか?感謝しますか?

パウロという人物は、信仰を持ち、イエスさまを宣べ伝えたために、非常に大きな苦しみを負いました。何度も命の危険にさらされ、捕らえられ、牢にぶち込まれ、最後は殉教の死を遂げたとも言われます。はたから見て、決して良い生活を送っていた彼ではなかったのですが、手紙の中で告白しています。「神は全ての出来事を働かせて、益として下さる」(ローマ8:28)と。

ラザロは結局死にました。でも、イエスさまは「それは死では終わらない!!神の栄光が現される!!」と言われたのです。実際に後の箇所ではラザロが生き返り、神の栄光が現されました。

私たち人類にとって、一番大きな呪いである「死」でさえも、神の栄光のために用いられるものだったのです。であるならば、天地万物を支配される神の御手に全てを委ねるならば、私たちの生活はどんなに行き詰っても、そこに最善の御業がなされるから、と感謝が生まれてくるのではないでしょうか。

偉大な支配者である主を信頼するがゆえに、感謝を捧げる者となりましょう。

 

B      内に光を頂こう(10節)

ラザロが死んで後、イエスさまはラザロのもとに向かいました。弟子達はイエスさまが「死を覚悟したのだ」と勘違いして、一緒について行こうとしましたが、イエスさまは全く違うことを話しています。「昼の内にあるけば躓かない。夜なら躓く。人の内に光がないから。ラザロは死んだ。あなたたちが私を信じるようになるために、私はラザロの所へ行くのだ」というのです。

光の問題があったようです。これを明らかにし、弟子達がしっかりとイエスさまに従っていけるようになるため、主はあえてラザロが死ぬまで待っていたのかも知れません。

神さまが天地万物を造られた時、一番最初に造られたものが何だったか覚えていますか?「光」(創世記1:3)です。神さまは光の内に様々な働きをされ、世を創造されたのです。その創造の内に昼と夜も造られました。

イエスさまは、10節で「しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われました。言い方を変えると、夜歩いて躓く人は、その内に光を持っていない、と言っているようです。逆を言うと、内に光を持っていたら、夜歩いても躓かない、ということです。

イエスさまはこの後、ラザロを甦らせることを知っていたのでしょう。死でさえも御支配される神の栄光を人々に、弟子に明らかにしようと考えておられたのです。その神の力を知り、これを信じ、この神に従う時、私たちは内に光を持つことになるのです。

夜歩いても躓きません。昼の光を遮るような暗雲が立ち込め、逆風が吹き荒れ、この世の終わりを思わせるような境遇に遭遇したとしても、私たちは主を信じる、そのことのゆえに、内に光が灯り、道に迷うことがないのです。イエスさまを信じ、光を頂きましょう。