喬木教会礼拝説教
2004年3月14日(日)

死んでも生きる         ヨハネ 11章17〜27節

◆イエスは復活と命

17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

@      復活の恵み (25節)

復活とは何でしょうか?敗者復活戦とも言われますが、死んだ状態、から再び生き返ることです。ですから、復活できることは、非常に素晴らしいことであるように思えます。

でも、復活する素晴らしい恵みを味わうためには、一度「死」を経験しなければならないのです。「死」を経験し、敗者のようになりながらも「復活」し、新しい命に生きるからです。

聖書は、イエスさまを信じ、バプテスマを受ける者は、イエスさまの死に与ることだと言います。自分が生きたまま、イエスさまを信じることが出来ないからです。イエスさまを信じることで自分が死に、復活し、新しい自分として歩む恵みをいただきましょう。

 

A      命の恵み (25節)

復活するだけではなく、そこに命の恵みがあることを覚えます。実はギリシャ語には「命」を現す言葉に2種類あります。「プシュケー」と「ゾーエー」です。

「プシュケー」はやがてなくなる命。死んでおしまい、肉の命です。「ゾーエー」は聖書で言う「永遠の命」です。

世の中には蘇生したニュースがたくさんありますが、蘇生してもやがてはまた死んでしまいます。でも、イエスさまの命は、「ゾーエー」であります。永遠の命です。

死んだ種を蒔いても実を結びません。命のある種が蒔かれるから実を結ぶのです。それも、そこに宿っている命に基づいた実を結びます。

私たちがプシュケーの命のみを持っているならば、プシュケーの実を結ぶでしょう。でも、イエスさまからゾーエーの命を頂いて、ゾーエーの実を結ぶなら、その実は永遠に残るものになるのです。

やがて無くなるものではなく、永遠に生きる者。永遠の命に基づいた実を結ぶ者になりましょう。

 

B      信じる者は死なない (26節)

イエスさまを信じる者は死なないそうです。ということは、何百歳まで生きていかなければならないのでしょうか?いえいえ。実際にクリスチャンであっても死にますよね。だからキリスト教式の葬儀も存在します。

天地万物が創造された時、全てのものが素晴らしくよく出来ていたので、人は永遠に生きる存在でした。でもそこに罪が入り込み、人の命に限りがつけられたのです。罪の結果、人は朽ちてしまう衣をまとわされたのです。だから、死も、老いも呪いの一つであるのです。

でも、その呪いがどうなったのでしょう。イエスさまを信じる者は死なない。死んでも生きる、と言われたのです。それは朽ちる衣を脱ぎ捨てて、朽ちない衣を身にまとった、ということを意味するのです。

死、それは全てのものを断ち切る呪いでした。この死があるから、希望を持ってもしょうがない、一生懸命になってもしょうがない、何をやっても無意味、という思いが生じるのです。でも、そこに永遠の命が注がれました。

すると、永遠に存在する命ですから、希望を断ち切るわけには行かないですね。希望、ビジョンがある所に喜びが生まれます。失意のどん底に落とされても、命によって立ち上がる力を得ます。無意味に人生を過ごすことがなくなるのです!!

信じる者は死なない。死の呪いが神の国へ行く最高のチャンスになったので、確かに死にません。これは同時に、現在を生きる力にもなるのです。同じ原理で、人生のピンチが、大逆転のチャンスであることを私たちは知るのです。このチャンスを喜び、死なない者の人生を満喫しましょう。