喬木教会礼拝説教  2005年6月5日(日)

キリストと共に死んだ
  ガラテヤ書 2章15〜21節

◆すべての人は信仰によって義とされる

 15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義と されると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行では なく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行に よっては、だれ一人として義とされないからです。17 もしわたしたちが、キリストに よって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える 者ということになるのでしょうか。決してそうではない。18 もし自分で打ち壊したものを 再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。19 わたし は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリ ストと共に十字架につけられています。20 生きているのは、もはやわたしではありません。 キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、 わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、 それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

 律法の実行によっては誰も義とされない、と16節で語られています。
 確かに、律法は完全に守って初めて意味をなすものであって、100の内80守っても 完全にはなれません。そして欠けのある私たちにとって、100の律法を完全に行う ことは不可能でありましょう。
 であるならば、いかにして私たちは救われるのでしょうか?

 イエスさまを信じる信仰によって、と聖書は言います。
 聖書は、イエスさまを信じる時、罪にまみれた古い自分は死に、新しい人、罪のない 清い者に生まれ変わったのですよ、と教えてくれます。イエスさまを信じるならば、 過去の自分は死んだ、と言うのです。いささか信じ難い話ですが、これが聖書の語る 真理なのです。

 信仰を持っても、過去に得た知識や体験を全て忘れて、生まれたばかりの赤ん坊のよう になって生まれ変わるわけではありません。当然昔からの感覚が残っているのです。 そのため、信仰を持っても、生まれ変わった実感をもてないかも知れません。でも、 確かに生まれ変わったのです。

 私たちは「契約を結ぶ」ことがあります。書類に印を押したことで、契約書に記されて いた約束が効力を持ち、私たちを守り、時に束縛するのです。そこには法的な力があ りますので、感情がいくら契約を否定しても、契約を結んだ事実がある限り、その契約 は有効なのです。

 イエスさまを信じる。その時、イエスさまが私たちを全く罪のない、清い者にして下さる、 という約束があり、その契約が施行されるので、私たちの感情に関係なく私たちは罪の ない、神の子とされるのです。
 であるならば!!
 いつまでも昔の感覚、感情に捕らわれて、自分の弱さや未熟さを嘆くのはやめましょう。 私たちの過去は、キリストの十字架と共に死んだのです。私たちが見つめる所は、新しく 生まれ変わった事実と共に、希望に満ちあふれる恵に溢れる世界です。
 あなたはどのようなアイデンティティを持っていますか?古い自分が死んだ、新しい人 としてのアイデンティティを確立し、勝利者として歩みましょう!!