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喬木教会礼拝説教
2005年6月12日(日)
キリストの命に生きる
ガラテヤ書 3章21〜29節
◆奴隷ではなく神の子である
21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。
万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法に
よって義とされたでしょう。22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ
込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる
人々に与えられるようになるためでした。
23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示される
ようになるまで閉じ込められていました。24 こうして律法は、わたしたちをキリス
トのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるため
です。25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下
にはいません。
26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、
男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハム
の子孫であり、約束による相続人です。
パウロは3章において、難しい論文を用いていますね。ちょっと読むだけでは何だか
わからない文章のような気もします(^_^; でも、ユダヤ主義者というのでしょうか、
律法を重んじる人々を説得するため、彼らの論法に合わせて語っていますが、彼の
主張は単純なものなのです。
神さまが与えて下さっている恵みを頂きなさい。頂いていることを思い出しなさい。
ということです。
律法はモーセによって与えられました。モーセは紀元前1600年頃の人物でしょうか。
その時代から、律法が入ってきて、人々は律法の支配下に置かれているようでした。
律法の要求を満たすことで、何とかして救われようとしたのです。ところが律法からは、
罪の自覚しか生じません。人々は律法に束縛されて、苦しんでいました。
パウロは、その苦しむ人々に素晴らしい事実を思い起こさせています。紀元前1600
年頃に与えられた律法よりも前、紀元前2000年頃に、神さまはアブラハムに約束を
与えて下さっていますよ。その約束は、後の律法によって無意味にされるものではなく、
今を持ってなお有効なのですよ。その約束こそが、皆が律法を行うことによって得よう
としているものですよ。あなたは、律法から解放されて、恵みによって、その恵みを
いただけるのですよ、と言っているのです。
私たちは何かをやろうとしたら、その目標に向かって、有効な手段を考え、実行し、
目標を成し遂げようとします。やがて目標を達成することになれてしまうと、いつの
間にか「目標を達成する」ということよりも、達成するためにとった「手段」や「過程」を
大切にし、「目標」を見失ってしまう、ということがあります。
目標を達成するために、「律法」という手段が与えられたのですが、人々は手段である
「律法」を大切にし、目標である「救い」、「神との関係」を見失ってしまっていました。
私たちの仕事、教会生活、日常の生活...何のために生き、何のために作業をして
いますか?
目標を見失い、習慣的な行為を取るだけ、という生活を送っていないでしょうか?
もう一度目標を確認し、神かた与えられる恵みを喜び、楽しみましょう。
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