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喬木教会礼拝説教
2005年6月19日(日)
律法からの解放
ガラテヤ書 5章1〜15節
1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。
だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
◆キリスト者の自由
2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、
あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。3 割礼を受
ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義
務があるのです。4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれ
であろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、"霊"により、信仰に
基づいて切に待ち望んでいるのです。6 キリスト・イエスに結ばれていれば、
割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔を
して真理に従わないようにさせたのですか。8 このような誘いは、あなたがたを
召し出しておられる方からのものではありません。9 わずかなパン種が練り粉
全体を膨らませるのです。10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、
わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑
わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。11 兄弟たち、このわたしが、
今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜ
ですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていた
ことでしょう。12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢して
しまえばよい。
13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、
この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うさ
れるからです。15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼ
されないように注意しなさい。
「解放」という言葉を聞くとどんなことを思いますか? 自由を連想させる、素晴
らしい言葉ですね。
でも、自由を履き違えると怖いですね。子どもを見ていても思います。好きなもの
をたくさん食べたい、暑かろうと寒かろうと、関係ない、自由に好きな服を着たい、
しかし、おやつばかりをたべているのでは、体調を壊しますし、暑い日に真冬の服
を着れば、ぶつぶつが出来たり、具合が悪くなったりするのです。あとで具合を悪
くして困るのであれば、それは、本当の意味での自由ではないですよね。
ではキリスト者の自由、律法から開放されて自由になるとはどのような歩みでしょ
うか。
先日、娘のお迎えに保育園に行った時のことです。先生と子ども達が10人くらい、
頭をくっつけて、何かを取り囲んでいたのです。何をしているのかなぁと私も、
そっとその輪に近づき、覗いて見ました。そこには、狭い虫かごに入ったアゲハチョウ
がパタパタと羽を動かしていました。その日、お昼寝から起きたら、それまでさなぎ
だったのに蝶々になっていたというのです。だから、みんなで蝶々にお別れをして
いたのです。あげは蝶が見事に飛び立つと子ども達は拍手をして、「アゲハチョウさん
またね〜バイバイ〜」なんて言いながら、空をみつめていました。
私はその姿を見て、狭い虫かごの中で捕らわれの身であったあげはちょうは開放され
て自由になったのだなぁと感じました。あの気持ち悪い、むにょむにょ動く毛虫がや
がてさなぎになり、チョウチョになるんですよね。どうして〜と本当に不思議でたま
りません。
ある本に、空を自由に飛んでいる蝶を見た人が、「見てみてあの毛虫!綺麗にうまれ
かわった毛虫をみて!」とは言わないですよね。蝶になったら、もう過去の毛虫でも
さなぎでもなく、新しい存在の蝶なのです。新しく造られたものを私たちが見る時、
以前のことは考えないのです。
全く同じように、私たちも古い自分が主の十字架で死んで、キリストの新しい命を
頂いた時、全く新しい存在になるのです。神さまは、その人のうちで生きてくださり、
かつての罪人の私たちではなく、新しい存在、義なる聖なる人としてみてくださると
いうのです。
蝶が毛虫やさなぎに戻ったりすることが決してないように、新しく創造された私た
ちが、古い罪の性質の自分には戻ることはないのです。
新しくなった私たちは、キリスト者の自由を歩むために、ただただ主の恵にとどまる
だけで良いのです。ヨハネ福音書15章のぶどうの木のたとえ話を思い起こして下さい。
主のうちに留まる時、主ご自身が働いて下さり、豊かな実、愛の行いを私たちを通して
行って下さるのです。
とにかく、キリスト者の自由を満喫し喜んでのびのび生きていく為には、主のうちに
とどまることです。これは、ついつい何かをしなければと思ってしまう私たちにとって
は、とても難しいことかもしれません。しかし、力を抜いて、主の御手の中で安らぐ、
そんなのんびりとした信仰生活をしてみましょう。
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